HOME>nomonhan                                          Nomonhan>mongolia >Aug 2010



              田原山の死闘U 第27連隊
             
                     ノモンハン事件現地取材2010夏 その8               
                                                      
                                                 十勝毎日新聞にて連載
  モンゴル国ドルノド県                                              2010 8
         
  
                 〈スンベル村の丘からハルハ河と戦場を見る。2010 8 10 早朝〉
  
       
         <泉田光雄さん 2010 6〉
   
   
  
     〈現在の高山さんと中谷さん 2010 4)
 
        
           〈当時の高山さんと中谷さん)

  
     〈高山さんたちが輸送した10センチキャノン砲〉


 
    
 このように砲は馬により輸送されていた〉

 
        休戦の交渉 高山さん提供〉

 
      〈遺骨になり旭川に戻る。高山さん提供〉

     
       〈ハマルダワーと数多いトーチカ

   「遺体処理と「
羊羹」

「休戦になり、死体捜索をしたんですよ。五人チームを作り簡単に埋められている死体を掘り出し、認識票を見て記録したんです。私が記録する係りでしたよ。死体は腐敗して、蛆が沸いていました。死体は薪をつんで、その場で火葬にしていましたよ。死んだ将兵の腕時計や軍刀を、大量に手にしている兵隊もいましたよ。酷いもんだね」武田幸太郎。 ノモンハン事件の特徴のひとつは、休戦協定締結後、日ソ両国が同じ地域で死体の処理作業を同時に行ったことである。
 日本兵4000名の遺体が回収されたが、遺体火葬中に爆発が起こり、作業に当たっていた兵が死傷する事故が頻発した。自決用に最後まで待っていた手榴弾が自らの遺体の中に埋没し、それが火葬の最中に爆発したのである。
 永瀬中隊の、遺体処理作業も行われた。どの兵隊の雑のうからも、「羊羹」が出てきたと言う。食糧不足のひもじさの中でも兵隊たちは、許可が出るまで食べることができなかったのである。当時僅か5銭で買えた羊羹。死んでも食べることができなかった羊羹は、戦友たちの涙を誘った。
  (みのぐちかずのり 北海道本別高等学校教諭)

  

全滅した永瀬中隊と春日中隊

 最終的に椿原・高田両一等兵が所属していた第3機関銃中隊104名のうち、20名が戦死し18名が負傷したが、もっとも被害が大きかったのは歩兵第9中隊(永瀬中尉)と第10中隊(春日中尉)である。
 この永瀬中隊は斥候隊の帰着を待ったために出撃が遅れ、それによって758高地を761高地と誤認した大隊本隊とは別に、目的地の758高地方面に進んだ部隊である。しかし、やはり夜明けとともにソ連軍戦車と遭遇し、壮絶な戦闘を繰り広げた。

日本軍の火炎瓶攻撃に対応するため、戦車・装甲車のガソリン・エンジンはディーゼル・エンジンに取り替えられていたことはすでに述べたが、戦法そのものも変えられていた。初期の頃は火炎瓶や手榴弾更にエンピを手に群がる日本軍兵士に対して、エンジン全開で駆け回って日本兵を蹂躙する戦法がとられたが、犠牲も大きかった。従って日本兵にあまり近づかず、一定の距離から射撃専門に撃って来る戦法になった。
 しかし中隊長の永瀬中尉自ら、日本刀を抜き戦車に飛び掛った。戦車の砲塔の天蓋を抉じ開け、乗員をまず突き刺した。こうして戦車は沈黙した。しかしもう一台の戦車に飛び掛ったとたんに被弾し、軍刀をもったまま転げ落ち戦死する。こうして99名の永瀬中隊のうち64名が戦死し、生存者は僅か12名あるいは14名と言われている。

 その生存者の1人に、北海道鹿追町在住の福原冶平(敬称略)がいる。当時21歳の衛生兵福原一等兵は、虫の息の富山分隊長から「救援を、連隊本部に頼んでくれ」と命じられ、医療器具の鞄と拳銃を持ち、銃弾の中を四キロ後方の本部に走った。そして三宮満冶大佐(第27連隊長)の前に出て中隊の惨状を報告すると、意外な答えが帰ってきた。
「全滅などとウソを言うな。お前は前線から逃げてきたのだろう。帰れ」と。悔しさの中、福原衛生兵は、部隊への帰路についた。
 途中軍刀を杖代わりに物陰に隠れようとしている将校の姿が見えた。「手をかさねば」とっさに思い、銃弾の中その将校を背負った。三歩ほど歩いたところで砲弾が炸裂した。二人そろって吹き飛ばされる。福原一等兵の左ひざに破片が突き刺さる。そして背中に破片を浴びた将校は、即死であった。その将校は、50名の戦死者を出した第10中隊長春日義雄中尉であった。

「私の部隊長が、春日中尉です」と語るのは、上士幌町出身の泉田光雄(敬称略 1917年生)である。
「私の春日中隊もね、200名くらいいたと思うんだけど、私たちのようにどんどん他の部隊に派遣されたからね。数が減っていったんだよ」
 泉田上等兵は、途中から第7師団通信隊用員に選ばれ、春日中隊から離れることになる。

「8月下旬にハイラルに送られて、そこからトラックに乗って8月29日の朝に前線の戦闘指令所につきましたよ。途中すれ違うトラックには負傷兵が乗せられていて、おおい頼むぞーと言っていました。戦局がよくないことは聞いていました。前線につくと、砲弾が飛んできました。通信には有線と無線があるのですが、無線は発信するな、発信すると傍受されてそこに砲弾がくるといわれました。それで有線(電話)を引くんです。3小隊あって第3小隊第一分隊に入れられました。

この方向に野砲隊がいるからと、指差された方向に歩くだけです。分隊長がいて、私が一番で電話を背負います。2番と3番が上等兵で、あと2人居ました。今と違い電話線は一本で、プラスだけです。色は黄色で、電話線は一束500bあります。砲弾を受けたり戦車が通れば、直ぐに切れてしまいます。直撃弾を受けなくても、爆発の圧力でも切れてしまいます。保線の仕事も大半でした。
 このときは8キロほど歩いて、野砲隊に着きました。最前線です。指令所につくと、大変喜ばれました。直ぐに私が背負っている電話から後方に電話をして、歩兵が1人もおらんから増援をよこせとやっていました。すると機関銃部隊をよこすと、言っていましたよ。電話はまずハンドルを回し、発電します。電話線が切れていると、ハンドルは軽いんです。繋がっていると重いんですよ。

戦闘は激しかったです。間一髪のときが三回ありました。砲撃が始まり、壕に飛び込んだ瞬間に砲弾が炸裂した時がありました。砂をかぶりましたよ」泉田光雄。
 食料などの物資は、相変わらず不足していた。
「一日に一度か二度食べられないのは当たり前です。乾めんぽう(乾パン)ばかりでした。食料より水不足が深刻でしたが、私たちは比較的恵まれていました。部隊の指令所を回っているので、そこで手に入るからです」泉田光雄。

「トラックがやってきて、適当に食料をばら撒くんですよ。それを我々が探し出すんです。米 味噌 梅干だけだったね。固形燃料で米を一日一回炊くことができれば、いい方だね。水が大変だよ。片道2時間歩いて、アブダラ湖までとりに行ったね。湖といっても、水面が見えないよ。草のくずなどが水面を覆いつくしていて、ドブ水と言おうか腐れ水だったね。それを手でよけて水を汲み、その水で米を炊くわけで、ボウフラだらけだったね。夜はやはり寒かった。夜具は一切なくてね、そのまま掘った穴の中で眠るだけだね。衣服に霜が降りていた日もあったね」武田幸太郎。

  休 戦 へ   

 スターリンは、ノモンハンでの戦闘の早期決着を切望していた。ヨーロッパ情勢が、切迫していたからである。91日にドイツは150万の大軍でポーランドに侵攻し、第二次世界大戦が勃発していた。ポーランドとバルト三国への作戦開始を、今か今かと待ち構えるスターリン。
 しかし、広大な国土の東西両面での二正面作戦だけは絶対に回避したいスターリンは、一日でも早い日本との決着を望んでいた。
 915日深夜モスクワで、休戦協定が結ばれた。粘りに粘った東郷大使は、意外に早いソ連側の譲歩に戸惑った。ソ連側には焦りがあったわけである。
 この直後の17日、ソ連軍は国境線を越えて東部ポーランドへの侵攻を開始した。すでにこの一月前に独ソ不可侵条約が締結され、ドイツとソ連の取引は成立していた。
 ソ連側の大義名分は、「東部ポーランドに居住するウクライナ人と白ロシア人を保護するため」であった。ここでも大国の論理が貫かれている。

 こうして派兵はしたものの休戦によって、幸運にも「死の戦場」に行かずに済んだ兵士は数多い。
 本別町在住の高山東(あきら 敬称略 1917年生)と音更町在住の中谷良一(敬称略 1918年生)は、当時野砲第7連隊第3大隊に所属していた。両人の第8中隊は154名、九二式十糎加農砲などが4門が配備されていた。
「砲一門を6頭の馬で引きますが、弾薬などその他で計20頭が必要でした」高山東。
 一万台近いトラックを準備したソ連軍と、いまだに軍馬にたよる日本軍との戦力差は比較しようがなかった。

8月20日、部隊はチチハルを出発した。
「ハイラルの駅は、負傷兵と遺体を満載した列車でごった返していました。前線より数十キロ後方の、セイリン湖畔の待機場に移動したんです。そこで仮の厩舎を作ったんです。もちろん屋根のなく、囲いだけだったね。前線から砲声が絶え間なく聞こえたね。916日の総攻撃の準備をしていたんだけど、休戦になったんだ」中谷良一。
「さすがに200キロあるハイラルから戦場まで、砲を馬でなんて引いてられないよね。砲は白系ロシア人が提供した車両で牽引することになって、僕たちは馬だけを移動させたんだよ。途中から夜間の移動になったね。水がなくて、水を求めながらの移動だよ。将軍廟についたのは、八月末だと思うよ。着いたら雪の日があった。霜も沢山降りていたよ」高山東。

砲を運んだ後は、丘の陰に馬を隠す仕事が中心であった。
「毒ガス対策に、馬用の防毒面も準備したよ。やっぱり水の確保が大変だったよ。亜麻の水嚢を馬に乗せて水をくみに行ったよ。馬よりも人間が飲みたいよね。ボウフラを布で漉して飲んだね。草が短く、馬に食べさせるものがなかった。馬は土・木・馬具を食べだしてね、胃のなかでそれが溶けて下痢をするんだ。多くの馬が死んだよ。夜はね、他の部隊の歩兵が馬を盗みにくるんだよ。盗まれないよう見張りもしたんだよ」中谷良一。

 9月に入ると、一機に気温が下がった。
「穴を掘り簡易天幕を張ったんだけど、その中で炭をたき暖をとったよ」中谷良一。
 91日から、ソ連軍は長大に国境線に沿って、防衛線強化のための陣地を作り始めた。二重の塹壕が掘られ、鉄条網による要塞化が進められていた。


  
                       〈朝日に輝くハルハ河。スンベル村で 2010 8 10
                      
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