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              川又地区の戦い 第26連隊の死闘
             
                     ノモンハン事件現地取材2010夏 その4               
                                                      
                                                十勝毎日新聞にて連載
  モンゴル国ドルノド県                                              2010 8
         
  
         〈バルシャガル西高地の川又地区からソ連軍の砲兵陣地があったコマツ台をのぞむ。2010 8 9〉
  
 
      <日本軍の戦車隊。高山東さん提供〉
  
   
   
      (当時と現在の菊池さん 2010 4〉   
 
  
   
    〈現在ハルハ河を渡る橋は一本しかない)
 
     
       〈第26連隊須見連隊長 菊池さん提供)
  
   
     〈現在も、ホルステン河には水が流れていた〉

  

      チョクトン兵舎と駆け寄る兵士〉   

 

   〈川又地区の墓標 第一次ノモンハン事件で
              東捜索大隊が全滅した地でもある〉


 


  日本戦車隊の壊滅

こうしてハルハ河西岸(左岸)への日本軍の侵攻作戦は、わずか2日足らずで挫折したが、ハルハ河東岸(右岸)の作戦はどうだったのであろうか。東岸では、日本軍は虎の子の戦車隊を繰り出した。その数計80両あまり、日本軍にもこの時期「戦車隊」はあったのである。

東岸地区への攻撃部隊は安岡支隊(安岡中将)と名付けられ、戦車第3連隊(中戦車主力約30両装甲車11両 吉丸大佐)と戦車第4連隊(軽戦車主力約40両 装甲車10両 玉田大佐)を先頭に、歩兵第64連隊(山県大佐)や歩兵第28連隊第2大隊の兵が続いた。
しかし、戦車第三連隊は壊滅しついに撤退することになる。壊滅した理由は、無理な計画と同時に、堅固な対戦車陣地に正面攻撃をかけてしまったためと言われている。戦車隊と歩兵の協力体制もなく、先行した戦車隊が早々にソ連軍の圧倒的な火力に壊滅した形になった。

 日本軍戦車の装甲の薄さが最大の敗因とされているが、ソ連側の対戦車作戦は巧みであった。もっとも効果を発揮したのは、「ピアノ線鉄条網」である。肉眼では見えにくいピアノ線は、二メートルほどの輪のかたまりになっていた。ましてや夜間は全く見えず、突然ピアノ線に絡まって止まった戦車は、ソ連軍の格好の標的になった。

 こうして20両ほどの戦車と装甲車が、破壊されていった。戦車第3連隊長吉丸清武大佐も戦死し、日本の戦車部隊はわずか2日あまりで壊滅し、残りの車両も全滅を避けるために満州の駐屯地に戻っていった。その後、日本軍戦車はただの一度も姿を見せることはなかったのである。
 ということは、その先数百両のソ連軍戦車を相手に日本軍兵士は、戦車なしで戦うことになる。「鉄の肉との戦い」と呼ばれる所以である。その後7月の戦線は、膠着状態となった。

7月23日の総攻撃

関東軍は、丘上から見下ろしながら自由自在に砲撃してくるハルハ河西岸コマツ台のソ連軍砲兵陣地さえ殲滅すれば、東岸のソ連陣地は簡単に奪取できると考え、砲撃主体の攻撃を準備し始めた。
 できる限りの砲弾を浴びせて、その直後に軍を進めようという単純な戦法である。決行の日は7月23日とされた。

現在北海道湧別町在住の菊池知一郎(敬称略 1916年生)が所属する第26連隊第3機関銃中隊に、応急派兵が下されたのは7月14日である。駐屯地チチハルを立ち、ハイラルに到着したのは7月19日であった。 翌7月20日、日没後現地に着くようトラックは発射した。しかし日没前に着いてしまい、更にたちまち砲撃がきたという。たどり着いたのは、ハルハ川とホルステン川の合流点「川又」地区である。

 この周辺で両軍は対峙していたが、日本軍はどうしてソ連軍戦車がやすやすとハルハ河を渡ってくるのか不思議でならなかった。7月12日ころ、ソ連軍は水面の下に鉄橋を作っていたことを突き止めた。これでは空からも発見できない。砲撃しても無駄である。その後ソ連側は、このような橋を複数構築していく。
 「ハルハ河も見えました。夜でも白く浮き上がって河がよく見えました。次の日7月23日の総攻撃を前に、須見連隊長から訓辞を受けたんですよ」、菊池知一郎。

7月23日は快晴であった。関東軍がかき集めた砲は、わずか82門であった。さらにソ連軍陣地のあるハルハ河左岸に砲弾が届くのはそのうち僅か46門である。この日、約1万発から2万8千発という砲弾が撃ち込まれた。確かに空前の砲撃ではあったが、ソ連軍の前には無力であった。午後にはソ連軍の砲が、優勢になってしまった。

砲は射程の長さが問題である。15キロから30キロというソ連なみの射程を持つのは、14キロの90式野砲が8門、18キロの92式10加がわずか16門という有様であった。
 10時から歩兵の突撃は、1時間延期され11時となったが、この変更が伝わらない部隊もあった。3時間半のこの砲撃の後、歩兵が前進を開始すると、ソ連軍の砲兵・重火器が一斉に射撃開始し、攻撃は進展しなかった。
 従って、日本側はやはり得意の「夜襲」に頼った。7月23日夜から翌朝にかけて、26連隊の第2大隊と第3大隊が夜襲を仕掛けた。菊池知一郎は、この戦闘に参加した可能性が高い。

「夜の総攻撃に参加しました。もちろん初めての戦闘です。お互いに陣地が向かい合っていました。ハルハ河を越えてソ連軍の陣地がありました。歩兵が先に前進します。その時機関銃は撃ちません。銃弾に限りがあり好きなだけ撃てないんです」、菊池知一郎。
 反対にソ連軍は、日本軍の姿を見ると容赦なく撃ってきた。
「近くにいた中隊長が、戦死したんです。頭が飛び散り、頭の破片や血や髪の毛が私の軍服に飛び散ってきたんですよ」。
 彼の部隊はソ連軍の放棄した陣地に潜り込んだが、ソ連軍の攻撃は激しかった。

「小隊長は根本隆中尉といいます。第二分隊の土屋分隊長が、部下の名前を呼び確認していました。指揮班長も負傷したんです」。そのソ連軍の築いた壕の中に入り、膠着状態が続いた。
 「何日かその壕にいました。飲食の記憶はないです。いつも明るくなる午前3時頃になると、ソ連軍は撃ってきたんです」、菊池知一郎。
 結局日本軍は、ソ連軍鉄橋に500bまで迫ったが成功せず、この戦闘だけで死傷者は135を数えた。26日に後方に下がり、ノロ高地周辺に26連隊はいったん終結して持久体制に移っていった。

こうして7月24日以降、砲兵はソ連軍陣地への砲撃を続行、歩兵部隊も連日夜襲を行ったが、ハルハ河右岸からソ連軍を撃退できなかった。
 砲兵戦に勝利を収めるためには、圧倒できるだけの火砲と弾薬を準備し、一挙に相手を殲滅することが必要であった。ところが日本側は火砲・弾薬量ともに少なく、ソ連側への捜索・観測も不十分で、砲兵戦が失敗するのは当然であった。


 7月3日ハルハ河両岸攻撃、7月23日からの砲兵戦主体の攻撃はいずれも失敗し、日本側は7月25日からは持久防御の態勢に入った。
 8月4日ころ、戦闘が再開された。
「低いところに下がろうとした時に、砲弾が炸裂したんです。右肘が負傷しました。血止めをして大隊本部に行くと、後方に下がって治療しろとなって、一人で歩いて後方に下がったんです。私の部隊は内田伍長以下26名のうち17名が戦死し4名が負傷したんです」、菊池知一郎。

この時期でも、すでにソ連軍の火力は圧倒的であった。随所で試しにこちらが1発砲弾を撃ち込むと、ソ連軍からは100倍から200倍の砲弾が打ち返されてきた。しかもコマツ台地からの返礼は正確で、たちまち日本軍の砲を吹き飛ばし無論周囲にいた砲手も弾薬手も吹き飛んだ。
 こうしたことを連日繰り返し、日本軍の戦力は確実に消耗していった。こうして8月20日、ソ連軍総攻撃を迎えていくのである。

  
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