HOME>nomonhan                                          Nomonhan>mongolia >Aug 2010



        第26連隊の死闘 バインツァガンの戦いU
             
                     ノモンハン事件現地取材2010夏 その2               
                                                  
                                                 十勝毎日新聞にて連載
  モンゴル国ドルノド県                                              2010 8
         
    
     〈バインツァガンの戦場の残る71年前の塹壕。26連隊撤退後ソ連軍が再構築したと考えられる。2010 8 9
  
     
       <バインツァガンに立つ墓標は残っていた

  
  
  
      (安達大隊長戦死の地周辺と塹壕跡〉   
 
  
   
  〈発見した石油タンク。中はソ連軍司令部跡のようだ)
 
  
         その内部は、広くはない 

  
         〈コウモリの親子が巣を作っていた〉

  
       〈ソ連戦のトラックの一部のような物)


 午前5時、26連隊の多くがハルハ河を渡り右岸に戻っている。そして、浮橋は日本軍によって爆破された。

「一キロくらい離れたところから、橋の爆破を見ていたよ。朝の5時ころかな。私たちのような怪我人はトラックで、野戦包帯所で待たされていたんだ。死体を、焼いたりしていたなあ。トラックを待っていたら、爆破作業が目に入ったんだ。橋が爆破されて渡れなかった人もいたよ。そういう人は負傷者だよ。たいした川ではないから負傷していなければ、渡れるよ。とにかくけがをした足の包帯をとったら、びっくりしたよ。2日も経っていないのにどこから入り込んだのが、大きなウジが沢山わいていたんだ」、山中礼三。

ソ連軍の被害も大きかった。死者2千名。修理され使用可能になったものもあるが、戦車は100台以上が装甲車も約70台が破壊されたという。
 こうして日本軍はソ連軍の圧倒的な火力に敗れ、5日の朝には、多くの戦死者、砲を遺棄して、ただ一本の舟橋を通ってハルハ河東岸へ敗走した。橋を使えず溺死した者も少なくなかった。以後、日本軍がハルハ河西岸に進攻することはなかった。
 
 この戦闘で日本軍の戦死者約2千負傷者は約3500名と言われており、第26連隊も戦死228名戦傷484名の被害を出した。計1720名のうち、実に722名が死傷したことになる


 安達大隊(第26連隊第1大隊)の全滅

この時山中礼三の第一大隊(安達少佐)は、26連隊の主力から離れてしまい、孤立する形になっていた。
 苦戦し始めた午後、モンゴルの騎兵300名ほどが現われた。機銃を浴びせると50ほどの死体を残した撤退していった。
 次に150台ほどのソ連トラック部隊が現れた。兵隊が下車して隊列を組んで、進んでくる。二千名程の大軍である。じっと見守る日本側。
 山中伍長勤務上等兵は、思わず機銃の押鉄(ボタン)を押してしまった。とたんに指揮官から「まだ撃ってはいかん」と、声が飛んできた。
「上官は敵かどうか分からんというんだけど、敵に決まってるよね。日章旗を振ることになって、自分も日章旗を一旦出したんだよ。だけど敵に決まっているから、振らないで自分の鉄帽の中に突っ込んだんだよ。すると当然鉄帽が浮き上がるよね。そこを、狙撃兵に狙われたんだ。後で知ったんだけど、ソ連軍部隊の両翼には必ず狙撃手が配置されていたんだよ。運がよかったんだ。弾は鉄帽(ヘルメット)を貫通して、後ろにした二番銃手の滝川の手を撃ち抜いたんだよ。私も汗のように血が流れてね、俺もやられたって叫んだよ」、山中礼三。
 こうして山中礼三も頭部に負傷、やや後方に下がったところで、いつの間にか眠ってしまった。目が覚めると、夕方であった。彼は一人取り残されていた。暗闇の中、仲間を捜した。そしてなんとか、部隊と合流することができた。

7月4日

日付が変わり7月4日午前1時ころ、今度はソ連軍のトラック部隊が前方を通過し始めた。
 安達大隊長自ら指揮をとり、これをやり過ごそうとしたが、気がはやった兵士がこのトラックに発砲してしまった。
 たちまち照明弾が上がり、照らされる。いったんこのトラック部隊は退却したが、体勢を立て直し戦車を伴って攻撃してきた。激戦となった。まず、第2中隊が突撃した。負傷して倒れたソ連兵の泣き喚く声が聞こえる。第3中隊にも、突撃命令がでた。
 しかしソ連も勇敢なことに、突撃してきた。「ウラーウラー」の声が響き渡り、たちまち阿鼻叫喚の戦場となった。そしてついに、山中礼三の機関銃中隊にも突撃命令がでた。
「近くにいた安達大隊長の、突っ込めえという声を実際に聞いたよ。私も短剣を抜いて、突撃したんだよ。機銃が飛んできて左大腿部を負傷して、進めなくなったんだ。そのとき安達大隊長が戦車に飛び乗り、そして転がり落ちるのも分かったよ。照明弾が上がっていて、15メートルほど離れたところで目にしたんだよ。大隊長は軍刀を抜いて、戦車の上に上がっていたよ」山中礼三。こうして安達大隊長は戦死した。

この「安達大隊長戦死の地」とされている地点が、バインツァガンの墓標から西数百bのところにある。この地点もGPSに数値を打ち込んで、探し当てたというわけである。
 
果たして見つけることができた。塹壕のようなものがある。数百bに渡って残っている。71年前のものである。そしてここに山中さんたちが、あの日ヘルメットで掘りそして蹲っていたのかと想像すると、鳥肌が立ってくる。

僧の福家君が声を上げる、何かを見つけたようだ。大きな石油タンクが、地中に埋められているではないか。隙間から中をのぞくと、広い空間があり横穴から中に入れる構造になっている。日本軍が撤退した後ソ連軍が塹壕を再利用しさらに、この「司令部の陣地」のようなものを構築したようだ。中は決して広くはなかったが、コウモリの親子が巣を作り、突然の私たちの進入に驚き抵抗を試みていた

その後ソ連軍は一旦撤退した。安達大隊も千メートルほど後退し、壕を鉄帽でほり機関銃を備えた。
「敵に包囲されることを予想し、360度の円形陣地を作ったんだよ。250人くらい居たと思うよ」。5日午前二時ごろ、
「敵に包囲されてしまってね、ソ連兵の話し声が聞こえるんだよ。蚊の大群がきて、頭が変形するほど刺されたよ。ここで最後の手紙も書いたよ」。

ソ連軍の攻撃が再開された。
「今度は手りゅう弾攻撃だよ。敵は少し後退して70メートルくらいのところに陣地を作り直して、そこから手榴弾攻撃だよ。隣の第8分隊の太田は、手でつかんで投げ返えしていたよ。直ぐに投げ返さず、おおい早くしろって言っているうちに手首が吹き飛ばされた初年兵もいたよ」、山中礼三。

夜明けとともに、ソ連軍は後退していった。それはむろん砲撃するためであった。案の定、その直後から砲撃を徹底的に受け、多くの兵が斃れた。こうして安達大隊は、敵の完全な包囲下にあった。
 午後3時、暑さが酷く水はなかった。前日から何も食べておらず、乾パンも水なしでは少しものどを通らない。
「そばの死体が、膨張し始めるんだよ。膨張してね、着ている軍服が裂けていくんだよ。暑さが酷くてね。40度くらいになるんだ。裸になったしね。なんとね50センチくらい砂を掘るとね、砂が凍っているんだよ。その冷たい砂を、体にかけて体を冷やしたんだよ。嘘みたいな話だけどね」、山中礼三。

午後10時、再びソ連軍が迫り手榴弾攻撃を再開した。接近して投げ込んでくる。兵たちは投げ込まれた手榴弾を拾っては投げ返した。これは砲弾より恐ろしかった。

 何もかも不足したが、水欲しさに狂う者もでてきた。兵たちは、ソ連軍の「水冷式マキシム機関銃」の冷却水を奪うことを考えた。
「二中隊の連中が、言い出したんだ。水を飲んでから、死のうって。近藤中隊長だって、水が飲みたいって言い出してたよ。近藤中隊長の当番兵をしていたことがあったので、近藤中隊長の近くにいたんですよ」。

 安達大隊長が戦死し、近藤大尉が大隊長代理になっていた。彼は夜半12時を待って援軍が来ない場合には、ハルハ河(6キロの距離)とは反対方向のボイル湖へ突進しようと考えていた。遙か西方に夜目にも白く水面が輝いていた。腹一杯水を飲んでから、死のうと考え始めていたのであろう。
「周りは撤退を近藤中隊長に勧めていたけど、近藤中隊長はとどまったんだ。今思うと無断撤退だけは避けたかったんだろうね。あくまで命令がくるのを待っていたと思うよ」、山中礼三。

「とにかく付いてったんだよ、足を引きずりながら。水が飲みたくってさ。50メートル先に、敵の機関銃が見えたんだ。世界中の機関銃の構造を勉強していたからね、冷却水が入っていることを知っていたよ。それを狙うことにしたんだ。こっそり暗闇に紛れて横に広がって近づいたんだ」。こうして、山中たち7名がソ連軍陣地に突入した。

「小銃に銃剣をつけて、突っ込んだんだ。そしたら、ソ連兵の腿に突き刺さったんだよ。その体の大きいソ連兵が私の銃を引っ張ったんで、そのまま真っ逆さまになって陣地に落ちたよ。そしたら、そのソ連兵に馬乗りになられたんだ。やつはピストルを腰から抜こうとしたんだ。もうだめだと思ったら、後ろから味方が突き刺してくれたんだよ。7名のうち3名は戻らなかった。分隊長と太田は戻ったよ」、山中礼三。
 山中礼三たちは、5リットルの冷却水を貪り飲んだ。当然ながら油の混じった水に、嘔吐を繰り返しながら。

7月5日     

 この全滅に瀕した第一大隊を、連隊長の須見大佐が先頭に立ち夜襲隊形で突入して救出することになるのは、さらに数時間後である。すでに日付は7月5日になっていた。土壇場で救援された兵たちは、ハルハ河に飛び込んでまずは水をがぶ飲みした。

                            BEFORE〈〈      〉〉NEXT                   
inserted by FC2 system