HOME>nomonhan                                        Nomonhann>mongolia >Aug 2010



        第26連隊の死闘 バインツァガンの戦いT
             
                     ノモンハン事件現地取材2010夏 その1               
                                                   
                                               十勝毎日新聞にて連載
  モンゴル国ドルノド県                                              2010 8
         
  
         〈バインツァガンの戦場にたつ墓標の前で。 後方はハルハ河とかつての戦場。2010 8 9
  
       
      <現在のハルハ河 右上スンベル村が見える

  
   
  
            (山中礼三さん〉   
 
   
     
      現在と当時の辻山さん
 
     
        
       
          現在と当時の田崎さん 

  

  
    〈スンベル村の博物館に展示されているソ連軍戦車〉

 
       〈降伏するソ連戦車兵 高山東さん提供〉

 
      〈コマツ台をバインツァガンに向かって走る〉

 
       〈数多くあるソ連側の慰霊碑は立派である〉

 
         〈バインツァガンに立つ慰霊碑〉

 

「砲塔の付け根の部分が、薄くなっているんでそこを狙うんだよ。そしたら止まったんだ」。その戦車からは、ソ連兵が飛び出してきた。
「二人飛び出してきたんだ。黒い服に黒い靴を履いていたよ。始めは降参する形で両手を挙げたんだ。すると、隣の部隊の畑山上等兵と歩兵砲の分隊長が、そのソ連の兵隊を追いかけたんだよ。ソ連兵は逃げ出し、ピストルを撃ち出したよ。結局1人はやっつけたけど、分隊長も負傷したんだよ」。
 こうして7月3日の午前中は、速射砲と肉迫攻撃で多数のソ連軍戦車が炎上し、ソ連軍の進撃速度は鈍った。この攻撃で100両以上のソ連装甲車両が破壊され、第26連隊だけで70輌程度を破壊したと言われている。

 しかし午後になると、ソ連軍は体勢を立て直してきた。そして日本側の弾薬も底をついてきた。次第に戦況は不利となってきた。
「勝っていたのは昼間だけだ、夕方になったら西にも東にもソ連の戦車が現れ、皆やられたんだ」、田崎秋弌。
 田崎秋弌は、7月3日自動車を運転してハルハ河を渡り、左岸の台地に進んでいた。
「26連隊と一緒だったんだ。自動車を運転してたよ。後ろに桜少尉(小隊長)が乗っていた。だけど少尉もやられたんだ」。
 桜少尉は、顔面に砲弾の破片を浴び倒れた。田崎秋弌は一旦ハルハ河の仮橋を渡り、少尉を野戦病院に運んだ。再び仮橋を渡りモンゴル領の左岸に戻り原隊に復帰したが、翌4日に右岸に後退している。
 この日の夕刻には、左岸地区からの撤収が決定された。わずか一日の攻撃での撤退であった。たった一本の浮き橋が奇跡的に破壊されなかったのは、単なる偶然でしかないだろう。行き当たりばったりの無計画な作戦であった。

はじめに

私の手元に「砂」がある。ノモンハンの戦場から今回持参し日本に持ち帰った「砂」である。
「先生。ノモンハンはね土じゃないんだ。砂なんだよ。簡単に掘ることができるけど、すぐに崩れていくんだ」と、今回体験を伺った元兵士たちが、口を揃えて語っていたその「砂」である。
 確かに、訪問したかつての戦場は不思議なほど「砂地」であった。ハルハ河周辺、特に日本軍が長期間陣取った「東岸地区」は、まるで海岸のように歩きにくくそして太陽ですぐに焼かれてしまう「砂地」であった。
 激戦地「ノロ高地」でその「砂地」から今回発掘した「ソ連軍の砲弾破片」と「缶詰の空き缶」も、遺品として持ち帰った。特に空き缶は、一つは楕円形の米製品のもの。もう一つは蓋がある、「アルコール固形燃料」と思われる。明らかに、日本兵のものであろう。戦場での生活にふれる、貴重な物である。
 日本兵8千名が斃れた「ノモンハン」の地。休戦協定後約半数の遺体が収容されたが、残り約4千の遺体がこの「砂」の中に現在も眠っている。近年日本政府によって遺骨収集が実施されたが、回収された数は決して多くはない。
 改めてこの砂を眺めると、「何のための戦争だったのか。何のためにこんなところで多くの若者が死ななければならなかったのか」。その疑問が、新たに沸いてくる。
「ノモンハン事件」という名の「戦争」。その直後の「太平洋戦争」の陰に隠れ、その実態を知る人は本当に少ない。71年という時を経て、どこまで「光を当てることが出来るか」、私のささやかな取り組みを紹介したい。

  その1 バインツァガンの戦い

1939年5月11日に始まった第一次ノモンハン事件は、日本側が約2千名の兵を送り、159名の戦死者を出して、いったんは収束した。
 軍中央(参謀本部)は、国境紛争には介入しないという方針であったが、当時の満州国奉天に本部を置く関東軍は逆にソ連との紛争には局地的なものでも「徹底的に叩く」という方針を固めていった。
 この後の第二次ノモンハン事件は、関東軍の「暴走」「独断専行」の形となり、第23師団がその作戦を実行していく。
 関東軍は基本的には不拡大方針をとり、数多い「国境紛争」の一つとして「ひとつ手柄でも」と軽く考えていたと受け取れるが、ソ連は逆に重大な手を打ちつつあった。
 それは、日本の野望を小さなうちに「徹底的に叩きつぶす」という大きな決心であった。このことを日本側は全く知る由もなかった。

 北海道を中心とした第7師団の一部に、最初の派兵命令が出されたのは6月20日である。その後言わば「小出し」の形で、第7師団の多くの部隊が次々と戦場に送られた。
 様々な数字があるが、第7師団全体では約1万名が送られ1500名が戦死している。この戦死者の中に生死不明者が350名ほどいらっしゃる。その多くは帰国せず、ソ連に残ったままと考えるのが妥当であろう。 
 第7師団
    歩兵第25連隊1915名 戦死98名 戦傷109
    歩兵第26連隊1720名 戦死598 戦傷783
     歩兵第27連隊1690名 戦死211 戦傷192名 
    歩兵第28連隊1770  戦死567 戦傷675名        
 
 この数字を見ると、歩兵第26連隊と第28連隊が多くの犠牲者を出していることがわかる。特に第26連隊は、第一大隊では中隊長小隊長全員が戦死し、 第三中隊は243名が23名になったという悲劇の連隊である。 
 ここに登場する「ハルハ河」とは、まさに日本が国境線として主張するものである。源流は大興安嶺山脈にあり、森林地帯を出て湿地帯を蛇行しながら流れる。川幅50メートル、水深2メートル。わずか200キロほど流れてブイル湖などの湖に消えていくが、地元の遊牧民と家畜には貴重な水を提供してきた。
 無謀にも辻政信作戦参謀を中心とする関東軍はこの河の西岸、「コマツ台」に布陣するソ連軍砲兵陣地を撲滅し、さらに退路を遮断して徹底的打撃を与えようと、みずから主張する国境線のハルハ河を越えて西岸に進出することを考えた。
 ソ連側も、この日本軍の攻撃には本格的な戦車を中心とする機甲兵団を使用して、反撃することを予定していた。

 2010年ノモンハンへ

崩れかけた天候が回復し快晴の朝を迎えた翌日(201089日)、宿泊したスンベル村の博物館から、北に向かって私たちは車を走らせた。
 西側はどこまでも平らな草原が続き、東側はハルハ河に向かって数十メートル落ち込む巨大な台地である。当時この「コマツ台」と名付けられた台地にソ連軍は重砲を数限りなく並べ、眼下に日本軍を見下ろすという絶対的に優位な立場にたっていた。当然ながら狙い済まし、日本軍に砲弾の雨を浴びせた場所である。
 途中、ソ連側の立派な慰霊碑が数多く建っている。
「北緯4549分・・・。東経11832分・・・」、直線距離で21.4キロ。
 日本から持参したGPS測定器が、事前に入力した数値を示した。今回車をチャーターしたウランバートルの業者から、「GPSは絶対に必要です。必ず用意してください」と、念を押され準備したGPSである。目印のない大草原では、GPSだけが頼りである。
 「あれだ!」ステンレス製の墓標が現れた。この地の名は「バインツァガン」。ハルハ河に浮き船をかけて渡河し、唯一度ハルハ河西岸地域に侵攻した日本軍がソ連軍と本格的な戦闘を繰り広げた「戦場」である。
 墓標には、供物が残っていた。少なからずの日本人が訪問している証だ。平原を初秋の風が吹き不抜ける中、同行した本別町密厳寺の僧福家君が周囲の草を刈る。その後彼の読経が響き、私たちは手を合わせた。この一帯に北海道出身第26連隊を含めた約2千名の将兵が眠っている。

  7月3日 ハルハ河左岸へ

1939年7月2日から3日にかけて日本軍は眼下のハルハ河にただ一本の舟橋を架け、約1万人の兵を渡河させた。
 渡河予定は午前3時だったが、計画は大きく遅れた。橋を架ける工兵隊が、暗闇の中でまずタギ湖をハルハ河と取り違えた。河の流れのないことから、その誤りに気づいたという。
 第26連隊(須見部隊)は、午前8時からようやく渡り始めた。前衛の第一大隊(安達少佐)大隊がまず渡河し、午前11時にはどうにか渡河を終えている。
「10時前には渡ったと思うね。空は晴れていましたよ」と語るのは、札幌市在住の山中礼三(敬称略 1917年生 第一大隊第一機関銃中隊)である。
河を渡るときは、トラックから降りたよ。全てのものを降ろして渡ったね。橋はやはり頼りない感じだったね。その時は砲撃もなく静かだったよ。橋は渋滞していて、車両がびっしりと並んでいる感じだったね」。晴天の昼間、渋滞し数キロに繋がる日本軍車両に、ソ連軍から攻撃がなかったのは奇跡である。こうして、「奇襲」はいったん成功したかに見えた。

こうして、日本軍は自ら主張する国境ラインを超えた。白銀査干(バインツァガン)台地の、やや傾斜した大平原を進む。河岸から2・3キロ前進すると、さすがに砲弾が激しくなり、山中一等兵たちはトラックから下車した。
 このとき、戦車の大群見えてきた。この日ソ連軍は戦車186両、装甲車266両を準備していた。

午前11時、ある将校が地平線に群がるソ連軍戦車・装甲車を数えた。500両まで数えたところで呆れてやめてしまったという。トラックなどの車両を含めると一千両の車両が見えたという。
 山中伍長勤務上等兵たちの部隊は、有利なよりよい丘を求めているうちに2キロほど徒歩で前進してしまった。ソ連軍戦車が、一キロ先に迫る。
 日本軍の姿を見ていったん隠れたソ連軍戦車約70台が、一斉射撃してきた。500メートルに迫ったときに、日本側も機関銃を一斉射撃したが、鉄の塊には殆ど効果がない。
「速射砲はあたっていたよ。次々と命中するんだよ。大隊砲はあまり飛ばなくて効果がなかったね」。
 ここで大活躍したのが、速射砲攻撃である。正式には九四式37ミリ砲といい、射程も徹甲弾は約7キロ榴弾は約6キロ、一分間に16発撃て千メートル以内なら確実に命中した。ソ連軍戦車に命中すると戦車の壁を突き破り、破片が内部でくるくる回り乗員を殺傷したという。この日、この速射砲を輸送した方が、札幌市にご健在である。辻山三郎(敬称略 1914生 輜重兵第7連隊第3中隊)である。

「私たちのトラックは、いすゞです。タイヤは32センチで、前が一列後ろはダブルになって、六輪になっています。砂などの滑り止めに、後輪にはチェーンつけていました。運転手は加藤上等兵、私は伍長勤務上等兵で、自分は殆ど運転していません。運転したことが、なかったんです。
 連隊砲を積んだんです。ハルハ河を渡るときは砲を降ろしましたよ。ハルハ河はね、前の日雨が降って水位が高かったんです。7月3日の午後だったと思います、渡ったのは。
 バインチャガン台に、行ったんですよ。下が砂地でした。海部中尉が、指揮官です。砲を下ろして、準備していました。私たちの目には見えませんが、海部中尉が双眼鏡で敵戦車を見ていました。砲を撃ち始めました。
 大砲の弾って、飛んでいくのが見えるんですよ。そのうち敵戦車が見えてきました。とたんに戦車砲が飛んできて、私たちは後方に下がったんです。戦車は数えていませんが、数十台だと思います。敵の戦車は、走りながら撃つので、なかなかこちらにあたりません。前も横も戦車だらけになり、慌てて後方に下がりましたが、私たちのトラックはセカンドで20キロほどしかスピードが出ませんでしたよ」。
 同じ部隊に、旭川市在住の田崎秋弌(あきいち 敬称略 1916年生輜重兵第7連隊第3中隊)がいらっしゃる。

「もうね分けの分からないうちに、ハルハ河を渡って50メートルほどの丘を上がったらね、敵の戦車が来てるっとなって慌てて車を降りたんだよ。1キロか2キロ先に戦車がいて、砲を撃つんだ。こっちも撃つぞということになり、砲弾がまっすぐ飛んでいくんだ」。

 戦車対対戦車砲の戦い。これは日本軍が初めて経験する近代戦であった。こうして速射砲は活躍したが、合計わずか18門。砲の総数も42門という数字が残っている。これでは、数でソ連軍に圧倒されるのは時間の問題であった。
 わずかな砲以外、戦車に立ち向かう武器は何だったのであろうか。「歩兵には、肉迫攻撃班をあらかじめ作ったんだ。12・13人の分隊から4・5人ずつ選ばれて、火炎瓶と地雷をもって、一番前にいたよ」、山中礼三。
 肉迫攻撃班が手にしていたのは、ガソリンを詰めたサイダ瓶であった。対戦車火器の不足を恐れた須見大佐(連隊長)は、ハイラルで1200本のサイダー瓶をあらかじめ調達していた。
 戦車が迫る。山中礼三の機関銃中隊には「肉迫攻撃班」はなかったが、サイダ瓶は各自4本ずつが配られていた。

「橋を渡る前に、ガソリンを入れたね。砂は入れていないよ。自分のフンドシのひもを使って、栓をしたよ。とにかく初めての作戦で、誰もよく分からないんだ。一台の戦車が、陣地を突破して我々の後ろに行ってしまって、それからこちらに方向転換してきたんだ。始めは、マッチで火をつけたよ。サイダは、アサヒサイダーだよ。ビンは透明であまり大きくないよ。腰に4本ずつぶら下げていたんだ。
 戦車の、前にぶつけてもだめだよ。最初に投げたやつは、ガソリンだけが車体の上で燃えただけだったな。後ろのエンジンで、熱くなったところにぶつけなきゃだめだよ。戦車は空冷式で、そこから空気を吸い込んでいるからね。しかも熱いから、火をつけなくてもビンが割れれば燃え上がることがわかって、それからは火をつけないで投げつけたよ」、山中礼三。
 風の強い草原では、なかなか火がつけられなかったが、ソ連戦車のエンジンは夏の日差しと長距離を走り続けていたために加熱し、火をつけなくても火炎瓶を投げつけるとすぐに燃え出したのである。しかし山中伍長勤務上等兵の前には、数限りなく次々と戦車がやってくる。4番銃手だった彼は、戦車に機関銃の徹甲弾を撃ち込んだ。すると貫通して、その戦車はぴたりと止まった。

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