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                白骨街道 インパール作戦 U 

                                 
  ミャンマー連邦                       2009 3 十勝毎日新聞にて連載 2010「月刊 歴史地理教育」に連載      
         
          
              <私のタクシーに勝手に乗り込んできたチン族の子供たち カレーミョの町を見下ろす>
  
 
    <チン高地の山々 ここを第215連隊は進んだ。>

 
      <チン族の人々 外国人の登場に興奮状態>
 
 

 
    <モンユアにある日本人墓地 周囲はゴミ捨て場>

 狂気の「インパール作戦」は、実に南北300キロという広大な地域に渡って展開している。その作戦の南端に位置する「カレーミョ」の町から進撃したのが、第33師団の第215連隊である。高崎市を中心にしたこの部隊が実際に進んだ山道を、私は是非辿ってみたかった。
 この町を西に一歩出ると、チン州に入る。約百万人のチン族が暮らすこの地域も、近年まで外国人の立ち入りが厳しく制限され、現在も外国人の訪問は極めてまれである。

悲劇の第二一五連隊

私は町で拾ったタクシーの運転手に頼み込むような形で、可能な限りチン州の奥深く入り込んだ。急坂を上ると、標高2千メートル近いチン高地の峰々が続いている。振り返るとカレーミョの町が、遥か下に見える。絶景を楽しむ場合ではない、65年前兵士たちは、破滅に向かってこの道を進んだわけである。

その第215連隊は英軍と戦いながら200キロの山道を進んだ三週間後、インパールを見下ろす地点に到達したものの、その後敗走を開始する。

大河チンドウィン川をさらに200キロも下った町「モンヨワ」に、この部隊の慰霊碑が建てられていた。
 現在もモンヨワからカレーミョへの道は、大変な悪路であった。ローカルバスで10時間、強烈な振動のため一睡もできない難路である。
 作戦の半年後、わずかに生き残った兵士たちが集積し、ひとときの静養を取ったのがモンヨワだったのであろう。   

町外れの線路際に七つほどの慰霊碑が並んでいたが、私の心を引き裂いたのは、周囲の荒れ方であった。
 慰霊碑の周囲は、ごみ捨て場であった。私には、どうすることもできなかった。ビルマの人々は心優しい人々が大半を占めるが、現地の人々にとって日本の行為は、「勝手に他人の家に上がりこみ、勝手にイギリスと喧嘩をし、そして勝手に死んでいった」だけなのであろう。

この第215連隊に所属し、インパール作戦の直前に日本に戻った元兵士に帯広市内にお住まいの浜村純さん(90歳)がいらっしゃる。「当時ラングーンに、一番乗りした部隊だったんだよ。ビルマでは、どこに行っても歓迎されたよ。特務機関が先に行って独立できると宣伝していたんだ。人々はね ケンチューハイ ドバマと連呼していたね。
 アジアの民族を独立してあげたんだよ。移動はね、歩いてばかりだったね。まだ日本軍には補給があって、食べ物には困らなかったんだ」

このモンユワ(マニウ)から更に100キロ下ると、ビルマ中部の大都市マンダレーとサガインがある。
 ここ
にも、辛うじて生き抜いた敗残兵が溢れた。池田町にお住まいの当時通信兵だった佐藤進さん(88歳)は、目撃している。「サガインに立ち寄ったとき、夜建物の軒下にうずくまっているボロボロの軍服にひげ伸び放題の兵隊に、銃を向けられたんだよ。金を出せってね。酷いもんだね。街中にね、どこどこ部隊はどこどこに集合せよというビラが、沢山貼ってあったよ」

 中心都市マンダレーで、私はこの国最大の仏教聖地「マンダレーヒル」に登った。その聖地の一角にビルマ方面戦没者の慰霊碑が立っている。ビルマには大戦中33万人の兵士が送られ、そのうち実に19万人が亡くなっている。私はここで、静かに手を合わせた。
 
   
       <大河チンドウィンの夕暮れ モンユアで>          <モンユアのバスターミナル 警察は外国人のローカルバス
                                             利用を禁じているが、実際には自由に乗ることはできる>


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