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                白骨街道 インパール作戦 T 



 ミャンマー連邦                      2009 3 十勝毎日新聞にて連載  2010「月刊歴史地理教育」にて連載
          
       
           <かつての「白骨街道」 インド国境タムからの道。 道のよいインド側から物資が流れ込む>
    
  
 
    <インパールに続く二千b級のアラカン山系>

 
     <何も知らない現在のインタンジー村の人々>

      
        <牟田口廉也軍司令官>

     
        <チャーターした車 インド製>

 
      <運転手はマハバンドゥラーさん 25歳>

  
 
 
     <モンユアの船着場と地元の学生パンガバー君>
     
 
     <カレーミョへの道は強烈である。振動も殺人的>
 
 
 <カレーミョ唯一のホテル TAUNG ZALAT HOTEL。空港の
  目の前にある。一泊15ドル朝食付き。電気は自家発電 
  TVなし お湯もでなかった>


 さわやかな乾いた風と、広々とした畑作地帯が続いていた。決して広くはないが舗装された路が、伸びている。インド側から物資を満載したトラックと、次々とすれ違う。この路は、2001年に完成したミャンマー最西部インド国境の町タムに続く「インドミャンマー友好道路」である。コスモスが咲き、楽園のような風景が広がっている。
 
しかし65年前ここは、あの悪名高き「インパール作戦」の撤退ルートのひとつであった。兵士たちの死体が道端に続き、兵士たちは「白骨(靖国)街道」と呼んだ。

 
インパール作戦南端の兵站基地カレーミョの町からタムまでは、約130キロ。このカバウ渓谷と呼ぶ盆地は、湿度が高く当時「死の谷フーコン」にまさるマラリア・チフス・赤痢菌の巣であり、路も泥濘の悪路であった。
 死体と病死寸前の傷病兵を目印に追撃してきた英軍も、この渓谷
(盆地)の入り口では停止したという。血便と泥にまみれて人間か土塊か区別できない者や、ウジに喰われて白骨化した死体も多かった。死体を啄ばむハゲタカが、群をなしていたという。 

ミャンマー政府は戦後長い間外国人の訪問を拒み、近年少しずつ門戸を広げてはいるものの、現在も外国人には一定の制限が設けられている。
 
人口約20万のカレーミョから一時間ほどの距離に、「インタンジー」村がある。作戦に投入された三つの師団(約六万人)を指揮した第十五軍や、南側から攻めた第三三師団の司令部があった村である。

 
愚将の代表牟田口廉也司令官は、この村から電話で最前線の部隊に連日インパール占領を指示した。それは怒号であった。「何をぐずぐずしておる。さっさと占領しろっ、この臆病者っ!」と。

6万の将兵は、三週間分の食料だけをもち標高二千メートルのアラカン山系を越え、インド側の英軍の拠点インパールを目指した。この村人に「なにか日本軍に関係のあるものはありませんか?」と尋ねてみたものの、何も知らないようである。歴史の風化は進んでいる。

昭和19年3月から開始された無謀な「インパール作戦」。すでに日本軍には百機ほどの飛行機しかなく、制空権は完全に英軍の手にあった。
 
そのため日本軍は夜間密林の中の、道なき道をしかも重い荷を背負い進まなければならなかった。牟田口司令官は、三万頭の牛の背に物資を背負わせ、無用になった際は食料にすることを考えた。
 これを「ジンギスカン作戦」と名付けて自画自賛していたが、作戦開始の大河チンドウィン渡河の際に、半数の牛が溺死ししてしまった。残る牛も急峻な山岳地帯では谷底に転落し、また反芻を必要とするためにしばしば立ち止まった。

 
食料だけを持った軽装備の日本兵には大砲や戦車(軽戦車がわずか66)はほとんどなく、兵は小銃と手榴弾に頼るだけであった。
 
それでも三週間後目的地「インパール」の町に日本軍は迫ったが、同時に食料も尽きていったのである。これは、英軍の作戦であった。補給のない日本軍を、自滅させるわけである。そして恐るべき雨季が始まった。この地は、世界有数の多雨地域でもある。

狂気の牟田口司令官は、参加した三つの師団の師団長を次々に更迭した。こうして自らの責任回避に努めると同時に、兵士たちの「白骨街道」が始まったのである。
 
何のための作戦だったのか、誰のための作戦だったのであろうか

  
   
インパール作戦とは
 太平洋戦争末期の19443月、日本軍が戦局の打開を図るために、当時占領していたビルマ(現ミャンマー)から国境の山岳地帯を越えインド側の英軍の拠点インパールの攻略を目指した作戦。第15軍司令官牟田口中将が強引に推し進め、三個師団約6万人の兵員が参加したが、3万人以上が食糧不足などで死亡した。撤退路は「白骨街道」と呼ばれ、無謀な作戦の代名詞となった。大戦中ビルマ全体では、約19万人の日本兵が戦死している。
    
    ◆
カレーミョへの行き方

マンダレーからプロペラ機の定期便(料金45ドル)が週4便ほど出ているが、国営のMyanmar Airwaysのため、飛ぶかどうかは前日にならなければ分からない。乗客が少なく、採算に合わない場合はキャンセルとなる。また入域許可証がないと、拒否される可能性もある。

モンユア(マンダレーからバス4時間)からは、船とバスの便がある。政府は外国人の利用を拒んでいるが、実際に乗ることはできるようだ。
 チンドウィン川を遡る大型船もあるが、確実に発車するのはスピードボートのようである。朝
4時にモンユアから出て、10時間ほどでカレーワに着くらしい。
 バスはターミナルから午前中
2本あり、大変な悪路を9時間(8000チャット日本円640円)はかかる。乾期は土埃が酷く、全てが土まみれになる。雨期は道路状態が酷く、運行できるとは思えない。

カレーミョでは、「外国人は市内から4マイル以上離れてはならない」という馬鹿げた政策が取られている。
 従ってホテル関係者は、許可証なしの私には非常に冷淡であった。チェックアウトの時に「許可証なしでやってきた外国人は初めてだ。You are brave」と言われた。市内から出る場合は、警察に見つからないよう裏道などを使う必要がある。警官の姿は多くなかった。

   ◆外国人への対応

ミャンマーでは、外国人の入国に対して一定の制限が設けられている。ビザの発給に関しても、マスコミ関係者を排除する目的で、「職業を証明する書類」の提出が求められている。

更に入国した外国人の動きにも、目を光らせている。「パセンヨー」と呼ばれる密告者が町の中にいて、住民達の動きと同時に外国人の動きも監視している。私も「あなた達外国人は、いつも見張られていますよ」と忠告された。「でも、中国人や日本人は大丈夫です」という。なるほど、私には尾行はついていないようだ。

 しかし、密告はあった。外国人制限地域のカレーミョにたどり着いた日、ホテルにたどり着くと警察がフロントで待っていた。彼は、ウイスキーのにおいをプンプンさせていたから、「外国人がローカルバスに乗り、この町についた」という通報が、彼に届いたのであろう。そして私をホテルまで乗せてきた自転車タクシーの少年を、執拗に問いつめている。

私はその前日(2009 1 3)に200キロ離れたサガイン管区の中心都市モンユワで、出入国管理局を訪問し、直接チーフオフィサーと対面して「書面」はないものの「入域許可の確認」を済ませていた。その事情を説明し、合法的な入域であることを主張した。

外国人の扱いに対する制限は、他にも「外国人と接触した後の報告の義務」「外国人の自宅への宿泊の禁止」などが、ある程度現在も行われているようだ。
 このように、外国人に対する制限は必要以上に多い。特に国境に近い大半の地域では、外国人の立ち入りが制限されている。これを「オフリミット」地区と呼ぶ。
 この「制限」には三種類があり、一つは完全に外国人の立ち入りを禁止するもので、これは少数民族との紛争地帯などで一般国民にも適用されている。
 
 もう一つは、「ヤンゴンからスルーのガイド付き」を条件に許可証を発行して外国人の入域を認めるもので、多額の経費と許可のための時間がかかる。
 三つめは、飛行機・鉄道などの特定の交通機関を指定し、その町あるいは一定の地域の訪問を許可するものである。

 これらの措置は、法で定められているはずもなく、管轄もあいまいで、警察・軍・観光省・出入国管理局などによって対応はバラバラ、しかも状況は現場におしてしばしば変わるようで、混乱している。

しかも一般国民にはこのことが全く知らされていないが、観光に関わる「旅行会社」「ホテル」などには厳しく指導が行き渡り、私たち外国人の奥地への移動を妨げていた。

なぜこのような措置が、取られているのであろうか。一つは「民主化運動対策」として、一般国民と外国人(特に民主主義を当然とする欧米人)との接触を避けたいこと。ひとつは、国境地帯に多い少数民族とのやはり外国人の接触を避けることにあるようだ。ビルマ人中心主義を取る政府は、知られていないが現在も少数民族に対して弾圧・迫害(強制労働など)を繰り返している。
 その現実を、世界に知られるわけに行かないのである。表向きは「治安の悪さ」「麻薬取引の危険性」などをあげるが、真の理由はそこにあるようである。


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