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  台湾植民地政策と霧社事件 Ⅱ
  


  中華民国
                                                                                
     

         
                霧社の集落から「能高山 3252㍍」を望む  2008/01/06

 

   
            (集められた味方蕃 
 

   
  
       当時の事件を伝える朝日新聞〉 

      
    「日の丸」を掲揚する山地少数民族少女
               「合歓礼讃」より)
  

しかも、日本の鎮圧方法は狡猾であった。自らの手を汚すことは、決してしなかった。ここでも「以夷制夷」政策つまり、「野蛮人」を使って「野蛮人」を押さえる手段がとられた。部落間の揉め事に対しては、日本が意図的に扇動し部落間で相互に殺し合わせるという方法である。

日本は蜂起した山地民族に対して、以前から敵対していた他の民族をそそのかした。これら「親日派タイヤル族」を「味方蕃」と呼び、彼らに敵蕃の首級と引き換えに懸賞金まで支給している。「理蕃政策」によって一旦禁じられていた「出草」の風習(成人の証に他族の首を狩る習慣)を一時的に開放し、同族間での凄惨な殺し合いが始まった。その結果、男は勇敢に戦い、女子供は自殺の道を選んだ。計700人の抗日タイヤル族が死亡もしくは自殺し、500人ほどが投降して事件は50余日で鎮圧された。

山中で自殺した
モーナ・ルダオの白骨死体は、数年後に発見されることとなる。更に日本はこの事件の汚名を徹底的に、消し去ろうとしている。投降した生存者を、再び親日派のタイヤル(タウツァ)族に襲撃させている。これが第二霧社事件(1931 4 )とよばれるもので、実に198(216)が再び首を刈られ死亡している。以前から抗日タイヤル族(セーダッカ)と対立関係にあったタウツァ族の約200人が、セーダッカの収容所2カ所を襲撃したのである。この事件の生き残りの人々も、その後「強制移住」などの果てにこの地から完全に追われていくのである。日本の「抹殺政策」は、徹底的なものであった。

② 事件の背景

 無論事件の背景には、日本の過酷な植民地支配「理藩政策」がある。「順調」だったというのは単に支配する側の見方であって、支配される側は「逆らわず」耐えていただけにすぎない。その忍耐の緒が切れたとき、その力はとてつもなく大きくなる。それが「霧社事件」であろう。

山岳部にすむ台湾「原住民」に対する皇民化政策は、思想教育と同時に平地定住化と稲作農耕への切り替えが図られた。その結果、経済的に豊かになった一面もある。また山深い隅々の村に、日本の警察官が送り込まれた。警察権から生活指導まですべての権限が日本人警官に与えられ、固有の伝統文化の破壊も同時に進行した。さらに警官はその地の頭目(部族長)の娘を現地妻として迎え、その政略結婚を利用して権力を不動のものにしていった。

霧社事件の背景にも、日本人警察官の姿が見え隠れする。地元のタイヤル族住民に対して固有の文化を無視した生活指導と同時に、「材木の運搬」など重い労務を強制している。その労働賃金や商取引の利益を中間搾取して自分の懐にいれるなどの行為は、さらに地元民の恨みを買った。これらの愚行は、枚挙に暇がない。

こうして積み重ねの上に、引き金になる事件が発生している。1930107日の「吉村克己巡査殴打事件」というものである。これはモーナ・ルダオの息子タダオ・モーナが宴会の席で吉村巡査の手を取ったところ、巡査はその手に獣の血などが付いていた事に気づき、思わずステッキで若者を2度殴打してしまった。それに対して地元民たちが、吉村巡査を集団で殴打してしまったというものである。日本人が潜在的に地元民を「野蛮人」と見下してきた意識が、ここでもハッキリとみてとれる。こうして背景の終点として「霧社事件」がある。

                         

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