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  ミッドウエー海戦と空母「蒼龍」Ⅰ
                            佐藤利彦さん


  
アメリカ合衆国                       
 
  
  
             〈佐藤利彦さん〉

  
        〈左が佐藤利彦さん、右が弟尚家さん〉
 
  
         〈当時のミッドウエー島〉

       
         〈2008 8 11 上空を通過〉

  
          〈そこからのミッドウエー島〉

 
         〈島の形がよく分かる〉


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「私の右耳は鼓膜が破れたままで、今も聞こえないんですよ。額の上にも金属片が入ったままで、空港の金属探知機が反応するんです」

そう語る北海道旭川市にお住まいの佐藤利彦さんは、空母「蒼龍」に乗船しあの「ミッドウェー海戦」に参加した経験をもっている。

この海戦で、日本が誇る当時世界最強の機動部隊は壊滅した事は、あまりにも有名である。空母「蒼龍」にも次々と急降下爆撃機が襲いかかり、命中した一発目の爆発で佐藤利彦は鼓膜を失い、そして重傷を負ったわけである。

194265日早朝の、出来事である。
「私に、ミッドウェーへの攻撃を知らされたのは、64日の夜です。兵が集められて、明朝午前3時(日本時間0時)に起床することが告げられました。作戦開始まで、もう数時間しか残っていなかったんですよ」

65日午前130分(現地時間430分)、ミッドウェーの北西200カイリ付近で、第一攻撃隊が発艦した。

空母「赤城」「加賀」「蒼龍」「飛龍」から、護衛の零戦が9機ずつ36機、九九式艦爆は「赤城」と「加賀」から18機ずつの36機、九七式艦攻は「蒼龍」と「飛龍」から18機ずつの36機合計108機である。

「私は九九式艦爆の飛行甲板係で、爆弾の装着をしていました。九九式艦爆には、急降下爆撃の250キロ爆弾を1発あるいは60キロ爆弾を4発取り付けるんです。九七式艦攻には、水平爆撃の800キロ爆弾か800キロ魚雷を一発です。   

発艦する時は重い爆弾を積んでいますからね、風上に向かって空母は全力で走って、飛行機の離陸を助けるんです。それでも、発艦した飛行機は海面すれすれに下がってしまうんですよ。

その日私は、ひょっとしたら今日はこれでお仕舞いかと思い、慌てて髪の毛や爪を切り遺書を書いたんですよ。こっちが攻撃するなら、向こうからも攻撃されると思ったんです」

その後すぐに、偵察機7機と艦隊の上空を守る零戦が飛び立った。この偵察機7機のうち利根四号機が故障し、発艦が30分遅れた。この利根四号機こそ米機動部隊を最初に発見するわけで、歴史に「もし」はないが予定通り発艦していれば、戦局は大きく変わっていたことに違いない。

午前230分、日本の機動部隊の上空に米軍機があらわれた。アメリカ側は、すでに日本艦隊の位置を的確に把握していた。アメリカ機動部隊は「エンタープライズ」「ホーネット」「ヨークタウン」の空母3隻で、その規模は日本の機動部隊に匹敵していた。

日米の機動部隊は僅か240キロの距離で向いあい、共に奇襲を狙っていた。先に相手を攻撃した方が勝利する機動部隊同士の戦い、一瞬を争う大作戦の幕が切って落とされようとしていた。

108機の第一次攻撃隊は、午前334分、ミッドウェー島の上空に達した。レーダーで日本機の接近を知った米軍は、30機のワイルドキャット戦闘機を離陸させ、日本機を待ち伏せていた。そして日本機2機を撃墜したが、逆に36機の零戦が米戦闘機を15分で全て撃ち落してしまった。当時はパイロットの技量も戦闘機の性能も、日本が上だったのである。

こうして無傷の九九式艦爆36機はイースタン島を、九七式艦攻36機はサンド島を爆撃した。しかし攻撃は不十分で、友永隊長は第二次攻撃の必要を南雲長官に打電した。

ちょうどそのころ午前340分、南雲艦隊は初めて米軍機の攻撃を受けた。米雷撃機が6機来襲したが、零戦がそのうちの5機を撃ち落してしまった。

午前4時南雲長官は、ミッドウェー島への第二次攻撃を決意し、艦艇用の魚雷と爆弾から陸上攻撃用の爆弾に変えることを命じた。それまで第二次攻撃隊108機には、現れるかもしれない米機動部隊に備えて、艦艇攻撃用の魚雷と爆弾をあらかじめ装備していたのである。

しかし、米機動部隊発見の報告は偵察機からこなかった。爆装転換作業が、開始された。250キロ爆弾であればともかく、800キロ魚雷を陸上用の爆弾に替えるのは大変な作業である。

しかし午前428分、遅れて飛び立った利根四号機から、「空母一隻発見」の報告が入ってきた。米機動部隊が、ここでやっと発見されたわけである。

南雲長官は、再び「爆弾を艦艇攻撃用に転換」する事を命令した。南雲長官は「先の転換命令からまだ30分しかたっていないので、魚雷のままのものも多い」と判断したわけである。しかし、実際は最初の艦艇攻撃用のものは全て飛行機から外されていた。重い魚雷も、装着するのは大変だが外すのは容易だったからである。

その時,B17大型爆撃機15機が現れ上空から爆撃を開始した。一機に250キロ爆弾が8発、15機とすると合計120発の爆弾が投下されたことになる。しかし一発も、命中しなかった。

「蒼龍」「飛龍」の第二次攻撃隊は、軽い250キロ爆弾だったので一時間ほどで準備が完了した。午前530分「飛龍」の山口少将が南雲長官に出撃を要請したが、南雲は「護衛戦闘機なしでは無理」と判断して「蒼龍」「飛龍」からの、発艦は待たされることになった。

現場の兵隊達は、やきもきしていた。
「なかなか、飛行機がリフトで上がってこなかったんです。準備は、できているはずなんですが」佐藤利彦

その時、第一次攻撃隊が南雲艦隊の上空に帰ってきた。しかし米軍機がいるので、着艦できず上空で待たされることになる。

再び米軍機の攻撃が、始まった。B26爆撃機20機が、襲ってきた。しかしこれもたちまち殆ど零戦に撃ち落され、命中弾はなかった。

   慢 心    

午前540分、米軍機の空襲がようやく途絶えた。上空に待機していた第一次攻撃隊が母艦に収容され、これをおえたのは午前618分であった。この間なぜ「飛龍」「蒼龍」の爆撃機36機と戦闘機18機を、発艦させなかったのだろうか。「赤城」「加賀」からも、半数の飛行機は発艦できた筈である。

南雲はあくまで正攻法である「戦闘機・爆撃機・雷撃機の三位一体」にこだわっていた。確かに、護衛戦闘機も充分につけた攻撃がより効果的ではあるが。
 度重なる米軍機の攻撃を簡単に退け、一発の命中弾もないのを見て米軍に対して慢心が起こったのかも知れない。そして重大なことは、この時点で米空母を一隻だけと信じていたことであった。実は偵察機が二隻の米空母を既に発見していたが、無線機の故障で送信する事ができずにいた。この偵察機はそのあと「飛龍」に着艦し、口頭で「空母二隻」の存在を知らせた時には、「赤城」「加賀」「蒼龍」は既に火炎に包まれていたわけである。

さて、問題の「爆装転換」に話を戻そう。
「赤城」と「加賀」では、戻ってきた第一次攻撃隊の飛行機にも魚雷装着の作業が始まった。装着する九一式魚雷は、直径45センチ全長5メートル27センチ、重量は840キロもある。小型自動車なみの、代物である。

そうしている午前723分、40機の米軍雷撃機が来襲した。この時、南雲長官はやっと気がついた。
「数が多い。一隻の空母からこれだけの雷撃機が来るとは思えない」
空母三隻からのものであった。この40機は、なぜか「蒼龍」に殺到した。

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