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「私の右耳は鼓膜が破れたままで、今も聞こえないんですよ。額の上にも金属片が入ったままで、空港の金属探知機が反応するんです」 そう語る北海道旭川市にお住まいの佐藤利彦さんは、空母「蒼龍」に乗船しあの「ミッドウェー海戦」に参加した経験をもっている。 この海戦で、日本が誇る当時世界最強の機動部隊は壊滅した事は、あまりにも有名である。空母「蒼龍」にも次々と急降下爆撃機が襲いかかり、命中した一発目の爆発で佐藤利彦は鼓膜を失い、そして重傷を負ったわけである。 1942年6月5日早朝の、出来事である。 6月5日午前1時30分(現地時間4時30分)、ミッドウェーの北西200カイリ付近で、第一攻撃隊が発艦した。 空母「赤城」「加賀」「蒼龍」「飛龍」から、護衛の零戦が9機ずつ36機、九九式艦爆は「赤城」と「加賀」から18機ずつの36機、九七式艦攻は「蒼龍」と「飛龍」から18機ずつの36機合計108機である。 「私は九九式艦爆の飛行甲板係で、爆弾の装着をしていました。九九式艦爆には、急降下爆撃の250キロ爆弾を1発あるいは60キロ爆弾を4発取り付けるんです。九七式艦攻には、水平爆撃の800キロ爆弾か800キロ魚雷を一発です。 発艦する時は重い爆弾を積んでいますからね、風上に向かって空母は全力で走って、飛行機の離陸を助けるんです。それでも、発艦した飛行機は海面すれすれに下がってしまうんですよ。 その日私は、ひょっとしたら今日はこれでお仕舞いかと思い、慌てて髪の毛や爪を切り遺書を書いたんですよ。こっちが攻撃するなら、向こうからも攻撃されると思ったんです」 その後すぐに、偵察機7機と艦隊の上空を守る零戦が飛び立った。この偵察機7機のうち利根四号機が故障し、発艦が30分遅れた。この利根四号機こそ米機動部隊を最初に発見するわけで、歴史に「もし」はないが予定通り発艦していれば、戦局は大きく変わっていたことに違いない。 午前2時30分、日本の機動部隊の上空に米軍機があらわれた。アメリカ側は、すでに日本艦隊の位置を的確に把握していた。アメリカ機動部隊は「エンタープライズ」「ホーネット」「ヨークタウン」の空母3隻で、その規模は日本の機動部隊に匹敵していた。 日米の機動部隊は僅か240キロの距離で向いあい、共に奇襲を狙っていた。先に相手を攻撃した方が勝利する機動部隊同士の戦い、一瞬を争う大作戦の幕が切って落とされようとしていた。 108機の第一次攻撃隊は、午前3時34分、ミッドウェー島の上空に達した。レーダーで日本機の接近を知った米軍は、30機のワイルドキャット戦闘機を離陸させ、日本機を待ち伏せていた。そして日本機2機を撃墜したが、逆に36機の零戦が米戦闘機を15分で全て撃ち落してしまった。当時はパイロットの技量も戦闘機の性能も、日本が上だったのである。 こうして無傷の九九式艦爆36機はイースタン島を、九七式艦攻36機はサンド島を爆撃した。しかし攻撃は不十分で、友永隊長は第二次攻撃の必要を南雲長官に打電した。 ちょうどそのころ午前3時40分、南雲艦隊は初めて米軍機の攻撃を受けた。米雷撃機が6機来襲したが、零戦がそのうちの5機を撃ち落してしまった。 午前4時南雲長官は、ミッドウェー島への第二次攻撃を決意し、艦艇用の魚雷と爆弾から陸上攻撃用の爆弾に変えることを命じた。それまで第二次攻撃隊108機には、現れるかもしれない米機動部隊に備えて、艦艇攻撃用の魚雷と爆弾をあらかじめ装備していたのである。 しかし、米機動部隊発見の報告は偵察機からこなかった。爆装転換作業が、開始された。250キロ爆弾であればともかく、800キロ魚雷を陸上用の爆弾に替えるのは大変な作業である。 しかし午前4時28分、遅れて飛び立った利根四号機から、「空母一隻発見」の報告が入ってきた。米機動部隊が、ここでやっと発見されたわけである。 南雲長官は、再び「爆弾を艦艇攻撃用に転換」する事を命令した。南雲長官は「先の転換命令からまだ30分しかたっていないので、魚雷のままのものも多い」と判断したわけである。しかし、実際は最初の艦艇攻撃用のものは全て飛行機から外されていた。重い魚雷も、装着するのは大変だが外すのは容易だったからである。 その時,B17大型爆撃機15機が現れ上空から爆撃を開始した。一機に250キロ爆弾が8発、15機とすると合計120発の爆弾が投下されたことになる。しかし一発も、命中しなかった。 「蒼龍」「飛龍」の第二次攻撃隊は、軽い250キロ爆弾だったので一時間ほどで準備が完了した。午前5時30分「飛龍」の山口少将が南雲長官に出撃を要請したが、南雲は「護衛戦闘機なしでは無理」と判断して「蒼龍」「飛龍」からの、発艦は待たされることになった。 現場の兵隊達は、やきもきしていた。 その時、第一次攻撃隊が南雲艦隊の上空に帰ってきた。しかし米軍機がいるので、着艦できず上空で待たされることになる。 再び米軍機の攻撃が、始まった。B26爆撃機20機が、襲ってきた。しかしこれもたちまち殆ど零戦に撃ち落され、命中弾はなかった。 午前5時40分、米軍機の空襲がようやく途絶えた。上空に待機していた第一次攻撃隊が母艦に収容され、これをおえたのは午前6時18分であった。この間なぜ「飛龍」「蒼龍」の爆撃機36機と戦闘機18機を、発艦させなかったのだろうか。「赤城」「加賀」からも、半数の飛行機は発艦できた筈である。 南雲はあくまで正攻法である「戦闘機・爆撃機・雷撃機の三位一体」にこだわっていた。確かに、護衛戦闘機も充分につけた攻撃がより効果的ではあるが。 さて、問題の「爆装転換」に話を戻そう。 そうしている午前7時23分、40機の米軍雷撃機が来襲した。この時、南雲長官はやっと気がついた。 |