HOME〉Micronesia                                                  Micronesia >2005



            
  見捨てられた島クサイエ
                             コスラエ島

 
 ミクロネシア連邦                       
 
 
                        〈美しいコスラエ島の海岸 2005 1 2 〉

 
 
        〈コスラエ島が見えてきた 2005 1 1 〉

    
              〈佐藤豊春さん〉
 
      
           
  
 
            〈とにかく海は美しい〉
  
 
          〈これが「スリーピングレディ」〉
  
 
      〈満州では討伐に出かけることが多かったが〉

 
           〈関東軍第四独立守備隊


 
            〈島内の商店も素朴だ〉

 


 
     〈三泊したホテルは直接海に面していた〉

 

「私の中隊103名のうち、死んでしまったのは40名もいたんですよ。みんな栄養失調ですよ」

そう語るのは、佐藤豊春(とよはる)さんである。彼は、1920(大正9)年に北海道本別町に生まれ、現在も同じ本別町にお住まいである。

どうやらこのクサイエ島(コスラエ島)は、玉砕の島ではないようだ。アメリカ軍の「蛙とび作戦」で、幸運にも蛙とびされた島である。しかしそれは同時に、遠く母国から見捨てられた島になっていく事も意味していた。補給の止まった「孤島」に待っていたものは、恐ろしい「食糧不足」である。このクサイエ(コスラエ)島という初めて聞く名に、私は吸い寄せられていった。いったい、どんな島なのだろうか。

私がクサイエ(コスラエ)島に降り立ったのは、2005年の元旦である。週に三便、グアムからホノルル行きのコンチネンタル航空の定期便がでる。グアムを飛び立ちチューク(トラック)島・ポンペイ(ポナペ)島・クサイエ(コスラエ)島・クウェゼリン・マジュロ島と「各駅停車」を繰返していく。

「アイランドポッパー」と夢のあるニックネームがつけられているが、実態は各駅停車のたびに機内から人々は出され、危険物が置かれていないかシートの隅々まで点検されて時間だけはたっぷりかかるわけである。従って、空の「鈍行列車」というわけである。

グアムからクサイエ(コスラエ)島まで5時間、マーシャル諸島のマジュロまでは9時間を要した。
 しかも、暢気な空の旅にはならない。各島の空港の滑走路は驚くほど短く、滑らかな着陸をしていては飛行機は滑走路からはみ出し海に転落してしまう。
 従って操縦士は、180人乗りの機体を滑走路に叩きつけるように着陸させる。毎度空母へ着艦するようなその衝撃たるや、すざまじい。しかも有視界飛行であるから、スコールの時間にぶつかれば、神業的な着陸を要求されるわけだ。

この島に到着するとすぐに、めぼしいホテルを目指して田舎のバスターミナルのような空港を出た。すると、空港の出口で日本人のような3人連れに出くわした。

「この島には、タクシーはありますか」
「呼べばありますが、ついでですからまあ私達のトラックに乗ってください」これが、山岡さん夫婦との出会いであった。

「日本から移り住んで、6年になります。この島の日本人は、私たち夫婦と青年海外協力隊の3人つまり合計5人だけですよ。私たちも、北海道出身なんですよ」
 もう一人の日本人が、トラックの助手席に見える。
「ああ、あの人はね大学の先生。文化人類学の研究で毎年この島に来ているの」東北学院大学の助教授三條先生である。
 こうして、偶然に三名の日本人と出会った私は、その後の4日間貴重なこの島の姿に触れることができた。

ミクロネシア連邦とコスラエ州

「ミクロネシア」の島々は、グアム島と北マリアナ諸島、ミクロネシア連邦、マーシャル諸島共和国、パラオ共和国から、赤道に近いナウル共和国・キリバス共和国まで含まれている。実に広大な地域に広がっている。

最も大きな島はグアム島だが、それでも淡路島よりはやや小さい。これが「小さな島々」を意味する「ミクロネシア」と呼ばれるゆえんである。総人口は、最も多いグアム島(16万人)を含め52万人にすぎない。
「ミクロネシア連邦」は、ヤップ州・チューク州・ポンペイ州・コスラエ州の四州から成っている。607の島からなり、面積は奄美大島ほどである。人口は約12万人、首都はポンペイ州のパリキールに置かれている。

コスラエ島は、日本から南に直線距離4500キロほどである。現在約8千人の島民が暮らしている。
「実際は、もっと少ないですよ。アメリカにビザなしで働きにいけるので、多くの若者がアメリカに流出しています」三條先生。
 昔は海賊たちの基地として、近世には捕鯨の基地として栄えたが、現在は子供の姿ばかりが目に付くわけだ。

ミクロネシア連邦の最も東にあるこの島は、赤道の少し上の北緯5度に浮かんでいる。決して大きな島ではない。南北12キロ・東西15キロのほぼ円形で密林に覆われている。 
 島の中心には、標高600メートルのスリーピングレディーと呼ばれる山の尾根があり美しい。海から見ると女性が寝ているように見えたので、この名前が付けられている。

満州からクサイエ島へ

佐藤豊春は6人兄弟の次男として生まれている。生家は明治31年、福島県から入植した開拓農家である。
「当時はね、兵隊になるのが子供の夢だったんですよ」昭和16年に召集された先は、関東軍第四独立守備隊であった。
225日に神戸に集められて、翌日には船に乗せられました。朝鮮の清津に着き、3月2日に列車で延吉に着いたんです」本土での訓練期間もなく、いきなり満州に送られたことに驚かされる。

豊春の部隊は移動を繰り返し、その後配属されたのは、歩兵第21大隊であった。
「金日成の共産匪対策に、追われていました。2回ほど、出動しましたね。私たちが出かけても、相手はいつもさっさとどこかに逃げた後なんですよ」
 現在の北朝鮮から満州東南部にかけての、共産勢力との戦いが主な任務となっていた。

昭和18年に入り、太平洋の戦局は悪化していく。ガダルカナルからの撤退とニューギニア作戦での失敗で、日本は迎え撃つアメリカ軍を南太平洋から中部太平洋へと、後退されていった。
 こうして中部太平洋の小さな島々に飛行場を不沈空母として作り、米軍が進攻しそうな島々に、兵力を配備する事になった。兵員の数は十数万人、その大半は満州から引き抜かれた。

 こうして昭和1811月に、南洋第2支隊(1901名)が創設された。部隊は3つの大隊で組織され、豊春は第3大隊の一員となった。

「私の第3大隊は、合計600名ほどいたと思います」
 第3大隊は、戦車中隊(95式軽戦車955名)・歩兵第7中隊・第8中隊・第9中隊(各103名)・機関銃隊で組織されていた。
「行き先も知らされないまま、列車に乗せられました」
 列車は朝鮮半島を南下し、1214日に良洋丸と日蘭丸に乗り釜山を出港した。他の部隊も一緒である。海上機動第旅団3942名である。駆逐艦3隻が、護衛に当った

「私は、良洋丸に乗りました。九州の佐伯港に入港しましたが上陸もせず、そのまま船団を組んで南に向かったんです」
 12月末に、ようやくトラック島にたどり着いた。トラック島にたどり着く直前の1224日ころに、発表があった。
 「ギルバート諸島のタラワ・マキンの守備隊が、玉砕した」タラワ・マキンの玉砕は1125日であった。一か月の秘密期間を経て、大本営が発表したことになる。タラワ・マキンでの玉砕は、5400名である。

アメリカ軍も、実に1200名の死者を出している。この思いもかけない死者の数に米は衝撃を受け、南海の全ての島を占領するという強気の計画を変更することになった。
 豊春は、幸運であった。クサイエ島は、その後のアメリカの占領予定リストから外されていったから。

トラック島に向かう船団を、巨艦が追い抜いていった。戦艦「武蔵」である。武蔵を取り巻く巡洋艦や駆逐艦は、親鳥の後を追うひよこのように見えた。
「着いて3日ほどして、正月を迎えましたよ。トラック島で、クサイエに行くと知らされたんです。船団はここで分かれました。ウエーク島に行った船もありました」
 豊春は、ここでも幸運であった。ウエーク島は、飢餓の島として有名である。送られた4139名の兵士のうち、2149名が食糧不足で死亡する島である。

またトラック島で、海上機動第1旅団3942名を乗せた但馬丸・日美丸と分かれた。この旅団は関東軍第3独立守備隊を、主力としていた。この2隻のたどり着いた先は、マーシャル諸島エニウェトク環礁であった。またしても豊春は、幸運であった。この島も、玉砕の島であったから。

「司令部は、日蘭丸に乗り13日にクサイエに着いていますが、私たちが着いたのは16日か7日だと思います」

こうしてクサイエ(コスラエ)島に送られた兵士は、この南洋第2支隊の1901名と、歩兵第107連隊(金沢)の1910名、そして海軍608名の合計4594名であった。島の中部に流れるマーレム川を挟んで、北側を歩兵第107連隊、南側を南洋第2支隊が担当することとなった。
 歩兵第一〇七連隊もまた、結果的に幸運な部隊であった。マーシャル諸島の米軍進攻に備え、ポナペ島に昭和一八年一〇月から待機していた部隊である。しかし、米軍は一一月にギルバート諸島のタラワ・マキンに上陸してきた。

そこでそのタラワ・マキンに逆上陸して、米軍を撃破しようと計画され、クェゼリン環礁まで進出し待機していた。しかし、タラワ・マキンは玉砕し逆上陸する機会を失ってしまう。行き場を失ったこの歩兵第107連隊は、一部をクェゼリンに残し、このクサイエ島に移動してきた。それは、昭和18128日のことである。

すでに昭和1712月から日本軍は、飛行場(マーレム飛行場)の建設を開始していた。昭和18年ころのクサイエ(コスラエ)島は、人口は3700名を数えていた。日本人が780名残りは現地島民である。そこに合計4594名の日本兵が送りこまれたのである。島は、多くの日本兵で膨れ上がった。


 

                             〉〉NEXT

inserted by FC2 system