HOME〉Marshall                                                  Marshall Islands >2004



            
   水爆実験とマーシャル諸島
                            マジュロ島にて


  
マーシャル諸島                       
 
  
                        〈マジュロ環礁 2005 1 1 撮影〉

 
 
       〈マーシャル諸島の名物はやはりマグロ〉

 
        〈マジュロにある、ピキニ島オフィスて゛〉
 
 
     〈マジュロ島にある、中部太平洋慰霊碑〉

 
         〈マジュロ島の美しい林〉

 
        〈海はダイバーたちの憧れ〉

 
    〈若者は米国に出稼ぎに行き、子供が多い〉

 

          〈マジュロ環礁〉
 

アメリカは1946年から58年にかけて、このマーシャル諸島のビキニ・エニウェトク両環礁で計67回もの原水爆実験を行ってきた。東西冷戦の産物「核兵器開発競争」によるものである。

ビキニとは、あの水着のビキニである。「びっくりさせる」 という意味で、当時としては奇抜なスタイルの水着に命名されることとなった。それだけ当時「核実験」は、驚異の存在でもあったと言える。

19466月のビキニ環礁での実験が、この地域での最初の核実験であり、7月の実験では戦艦長門や空母サラトガを参加させている。現在も空母サラトガは浅瀬に沈んだままで、ダイバーたちの格好の目標になっているようだ。

当時の核兵器は「原子爆弾」の段階であったが、19499月ソ連の原爆実験成功を知ったトルーマン大統領は、反対派を退けて水爆開発を推進していった。

そして195211月、エニウェトク環礁にあるエルゲラップ島で、史上初の水爆「マイク」の実験が行われた。実験ではエルゲラップ島は粉塵となって海上から消滅し、海底には直径1600メートル深さ70メートルの巨大なクレーターができあがった。こうして、核兵器は水爆の時代に移行していく。

195431日の早朝には、ビキニ環礁の一角ロンゲラップ環礁の西の空に閃光が光った。水爆実験「ブラボー」である。焼津のマグロ漁船「第五福竜丸」が被爆したのは、この時である。「ブラボー」は、広島型原爆の1000倍の威力持っていた

「死の灰」を浴びたのは、「第五福竜丸」23人の乗組員全員であった。急性放射能障害で、久保山愛吉さん(40歳)が亡くなったのは有名である。

水爆実験「ブラボー」がビキニ環礁で実施された時から、ビキニ環礁の住民は避難生活を余儀なくされている。核実験場建設に伴い、住民167人は、東にあるロンゲラップ環礁、さらにキリ島へ移住させられていた。

いずれの移住先でも、人々の生活は惨めであった。ロンゲラップ環礁では、31日の昼頃上空から「死の灰」が降ってきた。「死の灰」を浴びた住民は、発熱や吐き気などの放射線障害が見られた。しかし人々は、放射能で汚染された食糧や水を使い住民82人と4人の胎児が、「ヒバク」した。

このようにマーシャル諸島には、核実験場の風下にあたり「死の灰」を直接浴びたり体内に取り込んだ人たちがいる。ロンゲラップ環礁とビキニ環礁には現在も放射能が残り、自分の島々に戻れない島民がいるわけである。

私が訪問したマーシャル諸島の首都マジュロには、「ビキニ環礁事務所」が設置され、島民の保証金問題などを現在も扱っていた。事務所のロビーには何枚かの絵画が展示され、その内容にも考えさせられた。  

 ビキニ島やエニウェトク島に渡る定期便は現在もなく、私はマーシャル諸島の中心マジュロ島に足止めをくった形になった。

2004年の大晦日をこの島で迎えたが、サンゴ礁の島は小さく最大幅も300メートル足らずで大津波がくるとひとたまりもない感じであった。

マジュロ島には子供は多いが、働き盛りの男の数が極端に少ない。その多くはアメリカに出稼ぎに行き、そのまま移住しているという。核実験で迷惑をかけた代償として、アメリカ政府が無条件で彼らに就業ピザを発給しているのが実状である。

核実験の島「エニウェトク」も、日本軍の「玉砕の島」であったことを知る人は少ない。当時は、「ブラウン環礁」と呼ばれていた。直径37キロの礁湖をめぐって、40あまりの小島が連なっている。その中で最も大きい島が、エニウェトク島である。日本は大艦隊の良好な泊地として、昭和1711月からここに飛行場の建設をはじめ、昭和183月には滑走路一本が完成した。

昭和191月、海上機動第1旅団2763名が満州から移動し、本格的な防備を進めるために環礁の中のエンチャビ、エニウェトク、メリレンの三島に配備された。計3560名の、守備隊である。
 旅団司令部は、メリレン島に置かれていた。守備隊は防衛陣地の建設に多大な努力をしたが、食糧不足などのために完成しないまま、アメリカ軍が殺到してきた。

クェゼリン環礁を手にしたアメリカは、マーシャル諸島の西端のこのブラウン環礁に進撃してきた。ウォッゼ・マロエラップ・ヤルートなどの無傷の日本軍を無視する「飛び石作戦」である。飛行場があったのは、最北端にあるエンチャビ島である。

ここには1276名が送られていたが、島は真ったいらで丘も谷もない。飛行場だけで、島の面積の三分の一を占めるという小島である。

131日、その小島に120機の大編隊が襲い掛かった。10数機の日本軍機があったが4機は飛び立ったのち行方不明になり、他は地上で炎上した。そして218日、猛烈な艦砲射撃と空襲が始まった。地上にあるものはすべてが吹き飛ばされ、コンクリート地下壕だけが残っていた。

219日早朝、アメリカの上陸用舟艇が海岸に殺到した。
8
千名の陸軍と海兵隊である。はじめに上陸してきた3500のアメリカ兵に、動ける500名の日本軍は頑強に抵抗し、その後突撃ラッパとともに全員突撃を敢行した。こうして生き残った兵士は、わずか16名である。まさに、玉砕の島である。

一番大きなエニウェトク島は長さ4200メートル、幅が220メートル、北に行くに従い細くなっていく珊瑚砂の島である。エンチャビ島占領の直後から、アメリカ軍は利用できる全兵力で攻撃を開始した。220日に上陸し、翌日には占領を完了している。ここも808名の日本の守備隊のうち、生存者はわずか23である。

同時にメリレン島も攻略され、この島も1247名の守備隊のうち生存者は25名である。なんということであろう計3560名の守備隊のうち、64が生き延びただけとは。

昭和192月大本営は、クェゼリン、ルオットの玉砕をラジオにより発表した。しかしこのブラウン(エニウェトク)島の玉砕については、とうとう未発表に終わった。 国民に最後まで、知らされることもなかったのである。

現在マーシャル諸島の中心地マジュロ島には、大きな日本軍兵士の慰霊塔が造られていた。マーシャルをはじめ中部太平洋全体の戦没者を祀っている。

マジュロ島自身は、「飛び石作戦」で玉砕からまぬがれている。この島を訪れる日本人は年間わずか200名足らず、その大半も世界屈指の美しい海に憧れてやってくるダイバーである。この慰霊碑を知る日本人は、ほとんどいない。

 
  
          〈マジュロ市内での大晦日。賑わいは深夜まで続いた。数日前にスマトラ島沖地震が発生した〉 

                          BEFORE〈〈    〉〉HOME
         
inserted by FC2 system