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 兵士の蒸発した島「クゥエゼリン」
                            マーシャル諸島


  
マーシャル諸島                       
 
  
                 〈大半の日本兵が蒸発してしまったというクゥエゼリン島 2005 1 1 撮影〉

 
 
   〈搭乗したコンチネンタル航空機 コスラエ島にて撮影〉

 
    〈クゥエゼリン島に着陸直前 2004 12 29 撮影〉

 

 
       〈そして離陸直後のクゥエゼリン島 〉

 
    〈イバイ島が見える。密集しているのが分かる〉

 
         〈海とラグーンはすばらしく美しい〉
 

 クウェゼリン島にて

グアムを飛び立ったコンチネンタル航空機は、ようやく7時間後クウェゼリン空港にたどり着いた。2005129日のことである。島の大半を滑走路が占めていることに、まず目を奪われる。 

クウェゼリンとは、クウェゼリン環礁を指す。この環礁は現在「世界最大のキャッチャーミット」と呼ばれている。
 7500キロ離れたカリフォルニアから発射された米軍ミサイルが、着水するポイントとなっているからだ。クウェゼリン環礁は97のサンゴ島で囲まれた世界最大の環礁で、大規模な米軍のミサイルテスト基地が置かれている。

 そして着水したミサイルの残骸を、アメリカ軍ダイバーが収集している。近年は、ミサイル防衛(NMD) の実験場として使用されている。アメリカは北朝鮮のミサイル脅威を理由に、このNMDを実践配備する計画である。

現在この島には3千人のアメリカ軍関係者が生活し、環礁内のほかの島への移動のための立ち寄りを除いては一般人の訪問は許可されていない。隣接する「イバイ島」にいく場合のみ、許可が下りるらしい。

従って今回も、機内からは出られず写真撮影も基本的には許可されていなかった。島にはゴルフ場やスイミングプールなどの施設から映画館などの娯楽施設、スーパーマーケット・幼稚園から高校まで整備され本国と同じ生活ができるようになっている。

窓から眺めていると、空港脇の僅かな芝生はゴルフ場になっており、空港の周りを人々がジョギングしたり自転車に乗ったりしているのが見える。正にアメリカのライフスタイルが、守られている。しかし、常時太平洋の強風がこの島に吹きつけている。

このマーシャル諸島は、幅約200カイリ、長さ500カイリという広大な区域に広がる環礁群から成っている。環礁は約30あり全島が珊瑚礁でできており、土地は平坦で多くは標高1メートルから6メートルに過ぎない。つまり、真平らということである。
 この近代的な米軍の島も、かつて日本軍が「玉砕」した島であることを知る人は少ない。

玉砕へ

この島の住民は開戦当時日本人が約500人、カナカ族が約1万人と少数の外国人が居住していたといわれている。 マーシャルの各島は狭い上に平坦で、しかも地下水が浅く防備施設を作ることも極めて困難であった。

さらに利用できる面積があるのは、クウェゼリン島と北端のルオット・ナムルのほか、西端の小島だけであった。  
 クウェゼリン島は、マーシャル方面の中枢基地として整備され、開戦前から海軍は第六根拠地司令部を置いていた。そしてこのマーシャル諸島全体に、日本軍は合計25千の兵力を送った。

その兵力は、各島々に分散されていく。昭和191月の時点で、ミリ4640名・マロエラップ3330名・ウオッゼ3328名・ヤルート2311名・クサイエ4594名・ルオット2900名・クウェゼリン5210名である。
 ルオット島はクウェゼリン環礁のひとつであるから、ルオットとクウェゼリンはひとまとめにクウェゼリン環礁として数えるのが一般的である。

クェゼリン環礁は、どの島も椰子の木の茂る平らな砂島である。この環礁には、計8110名の兵士が送られたことになる。そしてこの島からの生還者は、わずか263名といわれている。防御施設は、ほとんどなかった。遮蔽物のない平坦な土地と硬いサンゴが、その構築を阻んでいた。

日本軍は、タラワ・マキンのギルバート諸島玉砕のあとの、アメリカ軍の襲来をマロエラップ島・ミリ島と予想していた。北のクウェゼリンは後回しであろうと、勝手に考えていたわけである。 

アメリカはその日本軍の油断を、突いてきた。124日アメリカはクェゼリン環礁に、日本軍が建設中の滑走路を発見し、そこで、この島をまず攻略することにした。この環礁に750機の艦載機を積んだ空母12隻と、300隻の艦艇が84千の部隊を満載して進撃してきたのである。

130日からの空襲は、日本兵を早くも恐怖のどん底に突き落とした。米軍機は、新兵器の「ロケット弾」 を使用し、鋭い金属音と高い命中度に地上にあるすべてのものが破壊された。空襲とともに、艦砲射撃も始まった。艦砲射撃の砲弾も、要塞やトーチカを貫徹できる徹甲弾が使用されていた。

 21日アメリカ軍は、西海岸に上陸を開始した。この3日間のアメリカ軍の攻撃力はすさまじいもので、兵隊たちは次々と「蒸発」してしまった。一片の骨も肉も残さず、肉体のすべてが吹き飛ばされてしまったという。22日は、飛行場東側の陣地をめぐって激闘が続いた。日本軍は爆薬をもって戦車に体当たりし、軍刀を振るって戦車に向かったものが続出した。
 23日首脳部は、防空壕で自決していった。残った将兵は自決の銃声を聞きながら、阿蘇大佐の指揮で米軍に突入した。半数は瞬時に戦死したという。こうして、クゥエゼリンは「玉砕の島」となっていった。
 24日捕虜になった日本軍はクウェゼリン全体でわずか264名、ほとんどが朝鮮人などの設営労務者であった。

現在クゥエゼリン環礁のイバイ島は、「太平洋のゲットー」と呼ばれている。わずか1キロメートル四方の小島に9000人が住み、「ゲットー」 化している。基地ができたグゥゼリンから、移住させられた人々である。

 現在この玉砕の島「クウェゼリン」の地下には8千名の日本兵が眠り、その真上に3千名の米軍のミサイル基地関係者が現代の豊かな暮らしをしているわけである。


     
                 
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