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      「満蒙開拓団・青少年義勇隊」とは                                    

  
                       
                                                                               
 
       
          〈加藤完治〉

    
        
〈中井秋雄さん〉

 
 
       〈中央に中井専一さん〉〉

  

        〈右から2人目が専一さん〉

 
       〈内原訓練所での専一さん〉

 
   〈満州に渡ると必ず日本式神社が建てられた〉


 

 

 
        〈専一さんの満州時代〉


 そもそも「満蒙開拓団」とはどんなものであろうか。「五族協和・王道楽土」。これが、当時の満州「開拓」のスローガンである。五族とは大和(日本)民族 、漢民族、満州民族、朝鮮民族、蒙古(モンゴル)の5つの民族をさし、「五族協和」とは、言うなれば日本人をリーダーにして、主なこの5つの民族が仲良く暮らそうというものである。「王道楽土」とは、日本の天皇制のもとに新しいパラダイスをつくろうという意味である。
 なるほど、理論的には「五族協和」とは問題がないように感じるが、結果的には日本人が支配者となり暴君として、他の民族を抑圧してしまうわけである。

日本政府は、1931(昭和6)年9月18日の満州事変以降本格的な「満州」の経営に乗り出すが、他国を支配するにもっとも必要なものは、より多くの「日本人」の存在であった。何より地元中国人を支配するには、数の上で圧倒は無理としてもある程度の数の日本人が不可欠という考え方である。

満州は、地下資源も豊かであるが、やはり農業が主産業である。そこで、日本からの農民の移住が考えられた。『開拓団』構想である。
 昭和初期の
日本の農村は不況が続き、しかも次男三男に分け与える農地も頭打ちになり、農地不足が深刻になっていた。その農地が、満州に無尽蔵にある。
 つまり増えつづける日本の人口問題に対応する農地・就職先として、満州が最適と考えられるようになる。国内では食料自給も追いつかず、新たな食料供給源の獲得も必要になっていた。これらの問題を一挙に解決するために、政府が考え出したものが『満蒙開拓団』というわけである。

満州事変まで、日本からの農業移民は1000人足らずであった。この新しい政策を推進したのは、東宮鉄男、石原莞爾(関東軍参謀)、加藤完治(農民指導者)・石黒忠篤らである。

東宮鉄男は張作霖爆殺事件の実行犯のひとりであるし、石原莞爾は、満州事変の首謀者であるから、暴力的な政策になる可能性が当初からあった。
 
当時の高橋是清蔵相は、この案に不賛成であった。『移民など、可哀想だから良くない』という一言で、いったんはしぼみかけたこの構想であるが、1932年の五・一五事件で高橋是清は更迭されてしまう(1936年2・26事件で暗殺)。

その後一気に、1932(昭和7)年満州国成立後から構想は具体化し、この年8月の閣議で第1次1000人移民が決まり、9月「拓務省第1次武装移民団」(492名)が佳木斯(チャムス)に到着した。
 当初の移民は、武装していた。武力で中国人を追い出し、当時匪賊と呼ばれていた反満抗日ゲリラと戦わせながら農業をさせようとしたわけである。彼らの入植地は、佳木斯(チャムス)から南に50キロほど下がった永豊鎮という村であった。

 そこは以前から紅槍会という本物の匪賊の巣窟であったが、日本軍による討伐が行われ、大半の家が焼かれていた。残っていた農民も、一人あたりわずか5円くらいで強制的に土地が買い取られてしまった。
計4万5千町歩(45000㌶)の土地から、現地人は立ち退かされた。ここに、最初の開拓団が出来たわけである。そして弥栄(いやさか)村と名づけられ、希望溢れる満州移民のモデルとして全国に宣伝された。

 現在北海道標茶町弥栄の住む小野塚芳一(よしいち)氏は、この弥栄(いやさか)村出身である。小野塚さんは、大正14年に新潟県長岡市に生まれている。宮大工だった父は昭和10年弥栄に渡り、芳一さんがこの地にはいったのは昭和14年である。
『農地は、日本人が入る前は大地主が保有していたようです』一般農民は小作農が殆どで、貧しい生活そのものは開拓民が入って後も変わらなかったかも知れない。

『確かに、匪賊はおりました。昭和12年ころまでは随分出たようです。知られていない事ですが、近くに金鉱があったんですよ。それで、特に匪賊が多かったのです』小野塚さん。
 なるほど、その金鉱を巡って、様様な勢力が覇を競い、様様な利害や思惑が絡み合っていた事が予想できる。

『昭和14年に、近くで鉄道爆破があって、見に行きました。貨物列車だったんですが、機関士が死んでいましたよ』小野塚さん。その後昭和20年になり、小野塚さんは召集される。当初、ソ連国境に配属されるが、沖縄に部隊は移動となった。
『幸運でした。沖縄には行きつかなかったんです。途中の済州島で、終戦になったんです』

弥栄に続く翌年の第二次の移民も、武装移民であった。弥栄村から南に30キロの吉林依蘭県七虎力に、500名が同様の手段で入植した。のちに千振(ちぶり)村と称した開拓団である。

第3次武装移民が北安省入植した後、第4次からは武装もなくなっていく。第4次(450名)が東安省密山県に送られるが、この中に哈達河(ハタホ)開拓団が含まれている。1936年の第5次までが、試験移民とされている。その後は、本格的な移民となり、終戦までに実に約1000もの開拓団が作られていくことになる。
 開拓団政策の推進は、同時に中国人からの土地収奪が進むことを意味していた。中国人からウラミを買う移民政策に、他ならない。


 1934(昭和9)年土地を奪われた農民は、ついに蜂起した。謝文東という人物を指導者に押し立て、移民団や軍隊を襲ったのである。最盛時の勢力は約1万人と言われているが、依蘭県の土龍山附近で蜂起したので土龍山(どりゅうざん)事件と名づけられている。蜂起軍は第2次移民団を襲い、入植地の七虎力(のちの千振村)を一時放棄させた。
 関東軍は、数ヶ月をかけて討伐したが、約5000名もの現地人を殺害したと言われている。この事件は、ニューヨークタイムスにも報道され、反満抗日のリーダーとして謝文東は英雄となった。

1936(昭和11)年廣田弘毅内閣は、7大国策の一つとして「20カ年で100万戸500万人移民計画」を発表した。本格的な、大量移民政策である。第1期として1937(昭和12)年11月~1941(昭和16)年に10万戸の移民計画が立てられた。対ソ戦略の関係もあって。ソ連国境に近いところに配置されることが、その特徴である。土地取得は「満州拓殖公社」(満拓公社)が、本格的に実施していく。

 「満蒙開拓青少年義勇軍(隊)」とは

 満蒙開拓団の経路には、もう一つの大きな流れがあった。いわゆる「満蒙開拓青少年義勇軍(隊)」と呼ばれるものである。
最終的には10万人にも上る、少年が参加した。

 1934(昭和9)年第3次開拓団に14名の青少年が参加したのが、その始まりである。1937(昭和12)年第1次近衛内閣が決定し、拓務省が「満州青年移民実施要綱」を発表し、そのころから本格的な政策が推進された。数え年16才~19才の青少年が対象とされ、茨城県水戸に近い内原訓練所で2ヶ月間の訓練をまず受ける。

日本体操に代表される国粋的な訓練が中心で、加藤寛治が提唱したものであった。加藤寛治は、『右手に鍬、左手に銃』というスローガンを掲げ、強力にこの政策を推進していった。内原訓練所で基礎的な訓練を受けた少年たちは、その後満州にわたり、各地に作られた満州開拓青年訓練所で3年間、現地訓練を受けた。最終的にこの満州開拓青年訓練所は、93か所に上る。その後、各地に散っていった。

『私の弟が、実は満州にゆかりがあるのです。青少年義勇隊に入って満州に渡り、そのあと兵隊になってニューギニアに送られる途中に、船が沈められて』。
 
 私は、そんな電話をいただいた。
北海道音更町にお住まいの、中井秋雄氏(大正7年生)からであった。その弟の専一(せんいち)氏のお話を伺った。
『弟の専一は、昭和13年7月に青少年義勇隊に入ったんです』専一さんは、大正9年(1920年)生まれであるから、17歳の時であろう。中井家は、明治32(1899)年に、岐阜県から現在の地に入植した開拓農家である。
『みんな、止めたんですよ。何もそんなところに行く必要なんて、なかったんですよ。父も、土地はあるから将来は分家させてやるからと言っていたんですよ。
 弟は、血気にはやっていたんですね。当時、この町から行った者なんて聞いたことがありませ
んでした』。

 専一さんは、当然ながら茨城県内原での訓練を受けている。直ぐに、満州に渡るが、
『満州のいったいどこだったのか、思い出せないんですよ。ただ、三年経った昭和16年に1度帰ってきたんです』僅か10日あまりの、帰省であったという。
『もともと、口数の少ない弟だったんですが、満州のことは殆ど話しませんでした。よっぽど辛いことばかりだったんでしょうね』その後、満州で入隊した専一氏は南方に送られていく。

『多分電話がきたと思うんです。ニューギニアに行くと思うと話したと思います』昭和19年に届いた便りは、戦死公報であった。
『ニューブリテン島に向かっていた途中、輸送船ごと沈められてしまったという内容でした』

 後に、開拓団にしろ青少年義勇隊にしろ、各府県に目標数が割り当てられた。国民たちは、その割り当てを無下に断る事は出来なかった。国の政策に躊躇するものは、『非国民』『国賊』として扱われる時代であったから。

 そして開拓団の農地の大半は、現地中国人から強制的に収奪されたものであった。土地を奪われた農民の多くは、新たにやって来た日本人に雇われることによって、生計をたてていく。もとの自分の土地で。現地中国人の『恨み』の上に成り立つのが、この『開拓団政策』であった。
   
                              
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