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        方正県と羽賀君枝さん                                     
                       
南靠山屯(みなみこくさんとん)開拓団


  
中華人民共和国黒竜江省                                                                                
  
    
       〈かつての砲台山に作られた日本人墓地。右は「方正地区日本人墓地」左側は「麻山事件日本人墓地」。
         この中国国内唯一の日本人墓地は周恩来によって作られた。昭和20年の冬、日本人の遺体がこの丘
                                                に山積みとされていた。 2004 10 23)

                                     
 
 
        〈黒龍江人民出版社発行「梦碎満州」

 
        (その中の君江さんについての記述)

   
          (羽賀忠雄さんご夫妻〉

  
 〈昭和38年に帰国するときの羽賀さんご夫妻)
 

 

 
  
(現在の大梦密(タルミ)の集落 2004 10 23〉


 
 (北海道滝川市にある南靠山()開拓の慰霊碑〉


 ハルビンから東に200キロあまりの方正
(ほうまさ)県には、中国で唯一の『日本人公墓』建てられている。

『なぜ方正に?』その一つの答えは、ここで多くの日本人開拓民が昭和20年の冬を超し、その越冬の過程で、多くの人々が死亡したことである。生き延びた人々もまた、多くの日本人女性が中国人に嫁ぎ、多くの子供たちが中国人に預けられた。生き延びるために中国人のもとに嫁いだ女性が、中国残留婦人である。当時は、『満妻(まんさい)』と呼ばれた。なんと、悲しい響きで在ろうか。

ある統計では、この方正に収容された日本人難民 8640名。死亡3260名。現地民妻2300名という統計がある。
 無論正確な数はわからないが、およその惨状を伺い知ることができる。方正は、中国残留婦人のもっとも多いところで有名である。生きるために、自分の子供を中国人に売り、そして最後は自分の身を託していった日本人たち。彼女たちはどんな思いで、生きているのだろうか。

私は、現在帰国し北海道帯広市内に住む残留婦人の方を知った。その方は、正にこの『方正』からの帰国者であった。しかし、2004年3月私が訪問したとき、彼女は重い病のもとにあった。私は弟にあたる羽賀忠雄さんを同じ帯広市内に訪ねた。
 羽賀忠雄さん自身も、実に昭和38年まで方正に残留していた。羽賀忠雄さんの話と、残留婦人になった姉君枝(きみえ)さんの登場する《黒龍江人民出版社発行「梦碎満州」》をもとに、この兄弟の歩んだ道をまとめてみたい。敬称略

  羽賀家の場合

羽賀家が、満州に渡ったのは昭和16年のことである。北海道足寄町から、祖父母・両親・叔母3名・叔父1名・そして7人の子供たちという大人数での入植であった。昭和8年生まれの忠雄は、当時満8歳の小学校2年生であった。
『牡丹江に一年いて、準備をしていましたから実際に入植したのは、次の年の昭和17年です』。開拓団の名は、南靠山()開拓であった。この南靠山屯開拓団もまた、分裂の果てに壊滅していく開拓団として名高い。場所は依蘭県土城子であるから、方正の北東約40キロに位置している。562名の団員のうち、232名が死亡し178名が中国に残留、帰国者152名という数字が残っている。

『南靠山屯開拓団は、大きく5つに分かれていました。本部・北見部落・紋別部落・十勝部落・堺部落です。私の所は、十勝部落というわけです。父親が病死しましたが、比較的平和な生活が続いていました』。

 しかし、街道からも外れラジオなどもなく、情報源を持たなかったことは避難を大きく遅らせてしまった。ソ連参戦の情報と、避難命令が出たのは実に8月14日のことであった。
『学校では、何も言われなかったのです。家に帰ると、大騒ぎになっていました。背負えるだけの荷物を持って、出発しました』。

 君枝14歳・忠雄12歳・10歳8歳6歳の弟、3歳の妹・37歳の母・20歳の叔母・70歳を越えた祖父母という家族構成であった。
 更に、20歳の叔母は2人の幼児を連れていた。母と叔母が、この幼児を一人ずつ背負い、君枝が3歳の一番下の妹を背負った。つまり、4人の兄弟が食糧を背負い病弱な祖母は馬に乗せられ、祖父がその馬を引いた。そして、女3人が幼子を背負っていたことになる。その結果、羽賀家は集団の最後尾になっていた。

こうして8月15日、隣の北靠山屯開拓団と合流して500名程度の大きな団体となっての逃避行が始まった。その日は街道の達連河(たつれんが)に到着し、満州炭鉱の僚に宿泊している。
 人々はとにかく哈爾濱(ハルピン)を目指して、西に進んでいた。翌16日、一行は街道を進み大河松花江にでた。そして、港町沙河子(サホーズ)にたどり着いた。最後尾を歩いていた羽賀家は、この日は途中で野宿している。

 夜中に住民の襲撃を受けたが、発砲してこれを防いだ。この港町沙河子で一行は、哈爾濱(ハルピン)行きの汽船への乗船を考えた。3日ほど、ここで滞在することになる。当然野宿である。避難民がどんどん溜まってきたが、その数約1700名と言われている。
『河の中に、潜望鏡のようなものが見えました。音がゴーゴーとするんですが、姿が見えません。ソ連軍の、水陸両用戦車だったんですよ。』 忠雄
 結局は、船に乗ることが出来ず、南靠山屯開拓団の現地に戻ることとなった。これは、命令であった。食糧も欠乏し始めたため、野宿を重ね三昼夜かけている。再び現地にたどり着いて目にしたものは、
『自分の家は壊され、家具は既に現地人に運び去られていました。人々は、自分の家の前で泣き崩れました。その時依蘭方面から、日本兵が約100名ほど着たのです。そしてこの時、戦争が終わった事を知りました。指揮官が、私たちにこういいました。ソ連軍が迫っているので、我々は大きい道も小さい道も行くことは出来ない。山中を行く事しか出来ないと』 君枝 『梦碎満州』より

こうして、撤退中の日本軍約1200名と合流し、軍と行動をともにすることとなった。人々は、安心した。8月21日に、この日本軍兵士と計3000名で、山林地帯を方正方面に向かって出発している。既に、疲労はピークに達していた。
『平野に出たところで馬や豚を殺して、食べたこともありました。山の中に子供を捨てる人が、多くなりました。
 どうする事も
出来ませんよ。毛布などにくるんで、山道の脇に何十人も置かれていましたね。私たちは、最後尾を歩いていましたからよく見ました。私たちのあとをつけてくる中国人が、拾ったりしていました。拾われなかった子供は、一晩で死んでしまうでしょうし、狼に食べられるでしょう。動けなくなった老人たちは、手を合わせて兵隊たちにここで殺してくれと頼んでいました。銃声が聞こえたりしましたから、始末してあげたんでしょうね』忠雄。

 この開拓団も、他の開拓団同様に子供と老人から犠牲になっている。『ある日、ある婦人がおばあさんの前に膝まずいていました。私の祖父が尋ねると婦人は、この人は私のおばあさんなのですが、もう歩けないというのです。このままでは、狼や虎に食べられてしまいます。おばあさんは、なんと日本は遠いのだろうと泣くだけでした。なんとか、その日は歩き出しましたが、その次の日私の母が、その婦人に尋ねました。あなたのおばあさんは?婦人は、泣きながらこういいました。首を、吊りましたと。 ある山の上での、出来事です。二つの荷物が、並んで道端に置かれていました。それは、細長いものと丸いものでした。私はなんだろうと奇妙に思って妹を降ろして、その荷物を広げてみました。それは、捨てられた赤ん坊だったのです』『梦碎満州』 羽賀君枝。

直線距離にして約20キロの山道を抜けて、一行は再び街道に出た。その街道で君枝たちは、ある日本人が兵隊から手榴弾をもらい、道端で自殺した現場にも出くわしている。

 大梦密(タルミ)の集落についた。
『この町に着いた時、大胡子団長の年老いた母をある兵隊が撃ち殺したんです。その老婆は、80歳を既に過ぎていました。息子の大胡子団長が、ずっと馬に乗せてやっとここまで連れてきたのです。しかし、無事に帰れぬことを悟った老母は何度も、息子に死なせてくれと頼んでいました。この町に着いた時も、死なせてくれと息子に頼み、息子はどうする事もできなくなったのです』 『梦碎満州』羽賀君枝。

 更に、大河松花江を前に、悲劇は続いた。
『一番悲惨だったのは、母親たちが自分の子供を殺していた事です。川の中に子供の頭を突っ込んで、泡が少しでるとそれで終わりです。子供の遺体が、河を流れていましたよ』忠雄。この様子を、君枝も目撃している。

『妹を背にして、母たちと河岸に座っていました。すると子供たちを連れた母親たちの一群が、見えたのです。親たちは、自分の子供を川に突っ込み殺していきました。母死んだ子供が、川に流れていきます。私は数えました。1人、2人、・・・20人ほどの子供が溺れ死んでいきました』 『梦碎満州』羽賀君枝。
 


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