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        撫順 死の永安収容所                                      
                   柳毛開拓団の運命Ⅳ 君島節子さん
 

 
中華人民共和国黒竜江省                                                                                
  
   
                 〈私たちは撫順の永安小学校跡を探しだした。橋本さん君島さん後藤さん。2004 8 9〉                   
 
 
       〈現在の柳毛開拓団跡地 2004 10〉

 
  
昭和19年4月3日 東安高等女学校第1回目の入学式。
 寄宿舎生活の彼女たちはソ連参戦の混乱で、160名のうち
 
90名が家族と再会することが出来なかった


        
 
 
かつての花園小学校の建物は、現在『中華人民解
 放軍93163部隊』の司令部になっている。

 
 
       〈現在の桃山小学校跡)

 

     〈旧桃山小学校前の君島さん)

 
 〈旧桃山小学校前の君島さんと岩崎スミさん)

 
     〈撫順の老虎台。右端が君島さん 2004 8 09〉

  
   (偶然であった老さんが永安小学校のことを覚えていた〉

  
 
          〈あそこだ。後藤さんが叫ぶ〉

 
            〈永安小学校の跡地〉

 
      〈この大学の中に永安小学校の跡地がある〉


  


  


『永安収容所』とは、撫順(フーシュン)の中心街にあり、もともとは『永安国民学校』であったが、昭和20年の冬に多くの日本人難民が押し寄せ、長く厳しい冬の果てに2000名以上の死者を出した難民収容所である。この収容所でも、柳毛釧路開拓団の多くの人々が正に生死をかけて越冬していった。


『3600人のうち生き抜いたのは1200人だったと、よく亡くなった父が口にしていました。亡くなった人を見ても、なにも感じなくなっていました』。

 そう語る君島節子(昭和5年生)さんは、現在北海道清里町に在住しているが、彼女もこの収容所で母と祖父を失っている。この君島節子さんの証言をもとに辿った道を、再現してみたい。

 君島節子の旧姓は岡崎節子。一家が柳毛釧路開拓団の一員として満州に渡ったのは、昭和16年春である。当時清里町札弦(っつる)地区で農業をしていた岡崎家は、一族がこぞって満州に渡る事になり、節子の父岡崎正雄も満州行きを決心していた。
 ただ母のワカは、最後まで満州行きには反対であった。しかし、正雄は3人の息子を連れてさっさと先に満州に渡ってしまった。
 その3か月後の昭和16年5月に、母ワカは満9歳の節子と3歳の庸子を連れて旅立った。新潟には、満州から父が迎えにきていた。船と列車を乗り継ぎ柳毛河にたどり着くと、節子たちは3人の弟と再会している。
 
 こうして渡った満州での生活も、母ワカには馴染めなかったらしい。
『母は、私たちを連れて何度も家出同然に日本に帰ろうとしたんです。そのたびに、滴道の町で連れ戻されてしまいました。一番日本に帰りたかったその母が、結局は日本に帰れなかったんですよ』。

 節子は高等科2年を卒業したのち、4年制の東安高等女学校に進む事になった。卒業直前の昭和20年3月3日に、学芸会が行われている。

『複式学級だったので、渡辺ミヨ(現杉本ミヨ)さんと一緒に七夕の劇をしたんですよ』。

 節子が入学した東安高等女学校は、前年の昭和19年に開校したばかりの日本人だけの女学校であった。前年入学した2年生は55名だったが、節子たちの1年生は2クラスとなり110名もの女子生徒がいた。校舎も寄宿舎ともに、兵舎を改造したものであった。

 ソ連国境まで20~30㎞の距離であるが、全くソ連参戦を意識しなかったようだ。現地中国人との接触もなく、全く戦況の悪化も気がつかなかった。6月に突然、生徒たちに帰省が許可された。学校側は、戦況のただならぬことを既に感じ取っていたようだ。

7月になると、夏休み返上で勤労動員に送られた。三江省杏樹という、勃利近郊の航空隊であった。90名の女学生たちは、その航空士官養成所の官舎を宿舎としていた。
『その官舎は、既にもぬけの空でしたし若い兵隊ばかり残されていました。今考えると、位の高い士官はさっさと家族を連れて安全なところに避難していたんですね』。

8月9日

ソ連参戦の8月9日は、昼間に節子はソ連機を発見している。夕方宿舎に戻った節子は、その見慣れない飛行機の発見を友人たちに自慢した。『こんど私が見つけたら、みんなに知らせるからね』と。
『その直後、飛行機の爆音が聞こえてきたんです。それで、友人を誘って外に出たんですよ。すると、いきなり機銃掃射が始まったんです。近くに走る列車を狙ったものでしたから直接被害はありませんでしたが、本当に腰が抜けてしまったんです』。
 大変なことになると、誰もが感じ取った。
『その夜から度重なる空襲を受け、そのたびに洗面器をかぶって避難しました。空襲解除で戻ると、壁には無数の砲弾のあとがありました』
 避難中に、節子は膝を負傷している。朝になって、
『食糧を、持てるだけ持って避難』という命令が出された。リュックを背負い、100名以上の女学生は軍用列車の無蓋車に乗せられた。軍用列車のため、特別な配慮で女子が乗り込んだことから、『声を出すな』と厳命されたという。
『屋根のない車両だったので、シートもかぶっていました。しかし、大雨にあい車内は水浸しでした。水の中にいましたね』

 列車は哈爾濱(ハルピン)を目指し、佳木斯(ジャムス)方向に北上し始めた。列車は、走っては止まりを繰返す。
『どの駅も、避難民で溢れていました。 列車に向かって避難する人が、群がって来ました。乗せてください、乗せてくださいと貨車に手をかけてくるんです。 
 それを、兵隊たちが振り落としていました。もし自分の父や母がいたらと、思いましたよ』


 日本人の避難民は、哈爾濱(ハルピン)に向かって線路を歩いていた。いったい、どれだけの人が哈爾濱(ハルピン)にたどり着くことが出来たのであろうか。
 8月14日ころに、哈爾濱(ハルピン)手前の三果樹に到着した。連日の雨のために濡れたものを乾かし、不必要なものを整理している。
『教科書なども焼きました。泣きながら焼いたんですよ』

   ハルビンへ

 そして翌日哈爾濱
(ハルピン)で、終戦を知ることになる。哈爾濱(ハルピン)の駅は、当然ながら大混乱していた。とりあえず
花園小学校を、避難先とした。
『街中は、あちこちに死体がありました』有名な花園小学校は、治安が悪いという理由で桃山小学校に移動することになる。
 ここで、節子は極めて幸運なことに、経緯小学校に避難していた柳毛開拓団の本隊と連絡がつき、両親たちと再会することができた。
『父親が、桃山小学校まで迎えに来ました』。節子の例は、極めて珍しい。残りの東安高等女学校の一団も、幸運であった。生徒たちは、4名の教員に率いられてほぼ全員が帰国しているという。

8月22日からの、ソ連軍による『男狩り』も、節子ははっきりと記憶している。
『父と祖父が連れていかれました。日露戦争にもいった祖父は、哈爾濱(ハルピン)で預金を下ろすことに成功したんです。その預金を全部体に巻きつけていたんですが、お金ごとソ連兵に連れていかれました。私たちには、小遣い程度の現金が残っただけでした』。

その後、新香坊収容所に移動していく。連日の使役には駆り出されたが、ソ連軍の監視下のため、意外と安全ではあったという。10月になると、栄養失調や発疹チフスで死者が続出し始めた。体力のない幼児からの順番であった。岡崎家では、10月7日2歳の弟勲(いさお)がはしかで死亡した。
『あの時号泣する母の姿は、忘れる事は出来ません。死亡を予定して、埋葬の穴が先に掘られていました。だからまだ、この時亡くなった人は幸せでしたよ。埋葬する穴もあったし、読経するお坊さんもいたんですから』

11月になると、男狩りされた16歳以上の男たちがボツボツと帰り始めていた。
『ある日、父が帰ってきたという連絡で、駆けつけてみると驚きましたよ。本当に、哀れな姿でした。髭は伸び放題で、日焼けして真っ黒でした。腰には、空き缶を二つぶら下げているんです。その空き缶で、食事をつくったそうです。莚(むしろ)をもっていました。莚(むしろ)は、寝る時の大切な蒲団です。その上、持病の腎臓病が悪化して体がむくみ、別人のようでした』。

撫順(フーシュン)へ

冬が近づいていた。柳毛釧路開拓団も解散し、岡崎家は撫順(フーシュン)に南下することを決めた。列車は、横になることも出来ないくらいのすし詰め状態であった
『後藤稔さんたちとは、一緒でした。何度も、ソ連兵が略奪に来るんです。大声を出せば、ビックリしてソ連兵は逃げていく事を知り、随分大声を出したと思います。でも、本当に怖かったんですよ』。

 そして一行は炭鉱の町撫順(フーシュン)に、たどり着いた。そして収容されたのが、永安小学校である。
『体育館のようなところに、入れられました』。横になることも出来ないほどの、日本人が押し込められた。ひとつの教室に、100人以上の難民が押し込められたという。横になることもままならず、夜半トレイに立つ事も困難となった。不衛生な環境は、たちまち虱(しらみ)を大量発生させていった。母を除く全員が、発疹チフスに罹った。11月末に祖父清作が息を引き取ったが、父正雄は病魔に冒されその死を知ることも出来なかった。
 こうして永安収容所は『死の収容所』になり始めた。冬の到来とともに、死者が溢れた。トイレは故障し、糞尿は廊下のバケツになされるようになる。その廊下のバケツもあっという間に、いっぱいになり糞尿が廊下に流れはじめた。糞尿だけではない、死体も建物の外に溢れ始めた。

『はじめは、裏にあった防空壕に、どんどん死体を入れていました。翌日その死体を見ると、衣服はすべてはがされ素っ裸にされていましたよ』後藤稔氏。

 その防空壕も、死体でいっぱいになると、遺体は凍りついたまま外に山積みにされていった。春近い3月になり、牡丹江の農学校に行っていた弟忠崇が新京(長春)からやってきた。奇跡的な、家族との再会であった。 しかし、この直後母ワカが家族の看病疲れと、忠崇との再会に安心したのか病状を悪化させこの世を去った。
『母は、私にこう言いました。私はもう死ぬから、食べ物はいらない。お前たちが食べなさい。そして、北海道のおばあちゃんのところに必ず帰るんだよと。37歳の母は、血尿が出ていました』。

 母ワカの死体は、防空壕に入れられたが、春には運び出されて処理されたという。岡崎家が全滅からまぬがれたのは、この『死の収容所』から脱出できた事もひとつの理由であろう。
 父正雄は、炭鉱で働くために、炭鉱住宅に移った。そこにはオンドルの暖房があり、永安収容所とは比べ物にならない生活環境であった。

『弟の忠崇(たかし)と啓(ひらく昭和9年生)の2人が、リュックに石炭を拾ってきて、私と弟の(はじめ(昭和11年生)が町にその石炭を売りにいったんです。意外と石炭は、売れたんですよ』。
 こうして母を失った岡崎家は、蘇っていく。雪解けとともに、永安収容所には新たな問題が起こっていた。冬の間凍りついていた、収容所周辺の糞尿と積み上げられた遺体が一斉に溶け出したのだ。すざまじい臭気が、収容所を襲った。そして解凍した遺体を、野犬が食い散らかした。

永安小学校へ

20048月9日、『永安小学校』を私達は捜した。地図には、永安の地名が撫順(フーシュン)の中心部にはっきりと残っている。しかし実際に行ってみると、そこは新しい住宅が立ち並ぶ新興住宅地であった。

『何か、覚えているものはありませんかね』。私は、君島節子さん同様家族を永安小学校で失った後藤 稔さんに尋ねた。
『すっかり、変わってしまっている』後藤さんは、困惑している。そうこうしていると、現地の老人が現れた。
『ここじゃあないよ。ずっと向こうだ。 私が案内するよ』と、言い出したのは老さん74歳である。老さんの案内で、バスは進むと大きな学校のような建物が現れた。

『遼寧石油化工大学 南合工区』と『職業技術学院』という看板が掲げられている。整備されたキャンバス内を進むと、後藤稔さんが、
『あっ、あそこに線路が見える。小学校が建っていたのは、あそこだ』と、はっきりとした口調で指差すところには、広い運動場が見えた。ここは、後藤さんも両親を失い、孤児となった地だ。
 忘れることが出来ない地だ。私たちは、合掌した。現在の中国政府がなんと言おうと、そこには間違いなく遺族が眠っている。

 君島さんは、日本から持参した食べ物をそっと草地の中に優しく包んだ。食糧不足から病に倒れた、肉親のために。誰もが、涙を押さえきれないシーンであった。

地獄の風景が展開され、その噂を聞いた撫順(フーシュン)市民は震えあがった。支配権を握ったばかりの中国共産党政府は、その一千体を越える死体の処理を命じ、それにかかる費用を拠出した。生き残った日本人が、作業にあたったという。
 馬車に10体ずつ遺体が乗せられ、市内の中心に流れる大河の河原に運び込まれた。
 馬車の遺体には莚がかけられていたが、路上の段差振動のたびに馬車から路上に滑り落ち、撫順(フーシュン)市民はそれを目にするたびに再び震え上がったという。
 昭和21年3月8日から3日間、馬車がこの遺体を河原の草原に運び、3月11日に火葬することとなった。午前11時50分に火を掛けたこの火葬は、昼夜24時間に渡り燃え続けた。1900の遺体が、灰となった。その火炎と悲しみの大きさに、その場の日本人たちはひたすら手を合わせるだけであったことだろう。


『私の家は幸運な方です。母と祖父そして幼い弟を失っただけで、残りの6人は生きて日本に帰ることが出来たのですから』
 日本への帰国も、比較的幸運であった。殆ど第一陣として、帰国船に乗ることができた。昭和21年の6月1日に、コロ島を出港し帰国を果たしている。

『少年義勇隊の少年たちが、一番気の毒でしたね。身内もおらず一人ぼっちで、部屋の片隅で知らぬ間に息を引き取って行きましたから』

 しかし彼等とは、正反対に全ての家族に先だたれ一人ぼっちになった少年もいた。しかも、彼はその後8年もの間中国国内に残留することとなる。しかも、中国共産党軍の兵士として。後藤 稔氏である。いったいどんな8年間だったのだろうか?


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