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       ハルビンで越冬した姉妹                                      
                    柳毛開拓団の運命Ⅱ 吉越ミネさん
                     
 りゅうもう

 
中華人民共和国黒竜江省                                                                                
 

     
                             〈現在の柳毛小学校の子供たち。2004 10 21〉   
                
 
 
      〈左から橋本悦子さん ミネさん ミヨさん〉

 
   〈渡満したときの渡辺家。前列右端しミヨ 後列右端ミネ〉

  
       (柳毛小学校時代のミヨさんは左端〉

 

 
        〈現在の柳毛開拓団跡地〉
 
 
     〈幸せそうな黄力偉さんと徐色玲さん
 
 
             〈現在の鶏西駅)

 
         
 

 
          〈現在の柳毛小学校〉
 
 

 
             〈現在の柳毛駅)

 
    〈現在の新香坊難民収容所跡地で 右後藤稔さん〉

 
      〈現在の経緯学校 ハルビン市内にある)



 満州の中心地哈爾濱(ハルピン)の冬は寒い。10月には早くも、季節は秋から冬に移って行く。11月初めには大河松花江に氷が張るわけだから、1年の半分は冬ということになる。厳冬期はマイナス30度を下回り、多くの日本人避難民は、この寒さに体温と体力・そして生命力そのものを奪われていった。

その終戦直後の哈爾濱(ハルピン)で越冬し、祖国の土を踏みしめた姉妹を紹介したい。姉の吉越ミネは(敬称略)、現在北海道石狩市にお住まいである。妹にあたる杉本ミヨは、現在北海道新篠津村に在住である。

2人姉妹の旧姓にあたる渡辺家が、満州に渡ることになったのは昭和16(1941)年である。渡辺家は山形県から北海道各地を移転し、最後に落ち着いたのが網走管内清里町札弦(さっつる)地区である。当時札弦地区は、小清水村に属していた。
 当時16歳のミネは、父伝吉・母スエ・妹ミヨ(昭和7年生)・弟きよし・勉などと新潟港から3月のまだ冬景色の日本海を渡った。
『席がなくて、船倉に入れられたんです。海が荒れて、ひどい目にあいました。新潟で乗船する前に買った梨の味を、覚えています』ミネ。

船は、北朝鮮の羅新(らしん)にたどり着いた。日本にはない。ニンニクなどの匂いが鼻をついた。やがて夫となる吉越正弥(まさや大正8年生)は新潟県上越市からで叔父をたより、単身満州にやってきていた。『満州に行けば、徴兵から逃れられるといわれていましたから、それもあったと思います』ミネ。

開拓団の暮らしは、比較的順調であった。そして運命の昭和20年8月9日は、午前0時と同時に飛行機の爆音がした。ソ連機である。
『照明弾が落とされて、明るくなったんです』。柳毛開拓団の人々は、まんじりともしない夜を過ごした。ほとんどの開拓民が、不安に駆られていた。夜明けと同時に、ソ連機の攻撃を受けた。ミネが、沼で洗濯していたときであった。 

8月10日

そして、あくる8月10日は、柳毛開拓団の本部に集合命令が出された。『2・3日避難するだけだから、荷物は少なめで結構』と言われたため、寒さを防ぐ衣服を持たなかったのがのちのち後悔の種となった。
『肝心な食べ物や衣服をあまり持たず、そのくせ、位牌・お骨箱・写真などを持っていったのですから、やはり気が動転していたのですね』ミネ。 
 8月10日に、本部に集合し滴道駅に向かった。

『周りの満人に、しばらく家を空けるので留守を頼んだのですが、父がいったん家に戻ると、満人たちは私たちの家の中で酒盛りを始めていたそうですよ』ミネ。
 ミネは、赤ん坊の英子(ひでこ)を背負っていた。川を渡し船で渡る、飼い犬たちがついてきた。
『クロ帰れっ。ジョーン帰れっ』と、ミネたちもあらん限りの声を出した。悲しい別れである。
『うちの家のマルは、滴道の駅までついてきましたよ』橋本悦子。

 父渡辺伝吉は、渡し舟の中でミネたち家族にこう語った。

『ソ連軍の手に、おまえたちを渡すようなことはしない。いざとなったら、わしの手でおまえたちを』。男たちには、既に銃が手渡されていた。

『滴道駅では、私たちのものが最後の列車と言われました』悦子。無蓋車(屋根のない貨車)に、乗り込んだ。吉越家と渡辺家、そして橋本悦子さんの窪田家は同じ列車に乗車した。

『焼夷弾で、焼けどしている人もいました』。乗り込んだのは夕方だったので、一晩列車ですごしたことになる。止まっては動きとまっては動きを繰り返し、牡丹江を目指す。ソ連機が襲ってくるたびに、貨車を飛び降りて林の中に隠れることを繰返した。

  (てき) (どう) (えき)

私たちが滴道駅を訪問したのは、04年10月21日の午後である。先に紹介したとおり、この年の8月に計画された訪問では、牡丹江までたどり着きながら中国公安当局によって、その先の立ち入りを禁じられてしまった。したがって、この柳毛の地や滴道にも私たち24名の訪問団は到達できなかったのである。今回は、目立たぬよう特に牡丹江から先は慎重に旅を続けた。

瀋陽からの夜行列車は、ほぼ満席だった。900キロの道のりを走りぬけ、定刻よりも早く午前7時40分ころに雨の牡丹江に到着した。
 そのままホームで、8時14分発の鶏西行きの快速列車に乗りこんだ。列車は済南からきた夜行列車をそのまま回送するようで、予想していたよりもずっときれいで快適であった。人々も、素朴でとても優しい。食堂車で8元の朝定食を食べたときも、周りの人々が親切に食べ方を教えてくれる。座席に戻ると、黄力偉さんと徐色玲さんの若い夫婦が向日葵の種の食べ方を教えてくれた。
『これは、何て言うの?』
『瓜子 クアーズ ですよ。私、日本のお金を見たいんだけど』。同行した千葉君が、日本のコインを取り出すと目を輝かせている。
『あなた方は、夫婦?』と、私がたずねると、奥さんは頷きながら顔を赤らめている。カメラを向けると、とても幸せそうな表情を見せる。

 こっちが照れてしまう。3時間ほどで、鶏西
(けいせい) に着くと幾分雨が小降りにはなっていたが、吐く息が白い。

 鶏西は、大都市である。かつては鶏寧(けいねい) と呼ばれて、鈴木幸子さんたちのハタホ開拓団もここを逃避行している。
 その45年8月10日は、この町は猛炎に包まれていた。ソ連軍の空襲と、日本人自らがつけた火によって。

私たちは、雨と泥対策として長靴を買おうと考えたが、やっと見つけた靴屋さんには長靴などなく、防寒靴ばかりが並んでいた。厳しい冬は、もうすぐなのだ。

私たちは長靴を諦め、昼食も取らずタクシーを拾った。目指す先は、滴道駅と柳毛である。運転手の宋さんは、飲み込みが早くてきぱきと対応してくれた。泥濘の道を、猛スピードで進むのではらはらのしっぱなしである。途中に、日本軍の作ったトーチカの跡が二箇所あり、紹介してくれる。

滴道の町に入ると、持参した写真を元に、町の中心部と滴道駅に案内してくれた。柳毛開拓団の人々が避難列車に飛び乗った滴道駅は、すっかり近代的な建物に様変わりしていた。

運転手の宋さんは、わざわざ駅の公安室に行ってわれわれの事を説明している。案の定公安員は、われわれの訪問に難色を示し、撮影などはいかんと言い出した。ロシアとの国境が近いことがその理由なのかも知れないが、公共の施設を撮影してはならんとは、やはり理解に苦しむ。私たちは先を急いだ。

ムーリン川を渡り、丘陵地帯を抜けていく。道はどこまでも泥濘状態で、舗装されたものがほとんどないことに驚かされる。道路標識もなく、いつしかタクシーは柳毛の集落に入っていた。道の両脇には、住宅と水田が続いている。学校がある。開拓団の人々が通ったものに、違いない。

牡丹江からハルビンへ

 再び、吉越ミネ・ミヨ姉妹の話に戻ろう。たどり着いた牡丹江の町は、燃えていた。ソ連の空襲も原因だが、
『日本人の男たちには、マッチが手渡されましたよ。それで建物に火をつけたりもしたんです』ミネ。
 列車は、ハルビンを目指した。列車は、やはり停車と発車を繰り返す。停車している間に、トイレや飲み水の調達を済まさなければならない。列車はいつ発車するか、誰にもわからない。置いていかれたら、それまでである。
 その中で、悲劇が起こっている。同じ開拓団員、後藤ヤエの轢死である。ミネ・ミヨ・悦子が目撃している。
『あわてて貨車にしがみついたところを、振り落とされたんです。一度轢かれたあと、再び列車はバックしたので、2度轢かれてしまったんです』ミヨ。

しばらく息があったが、どうすることもできず夫の手で楽にさせてあげたという。さらに、ミネは同様の事故を目撃している。
『男の人が、多分井戸水を求めて途中で列車を降りたんですね。慌てて貨車に戻ったところ、足を切断してしまいました。その足が、貨車の向こう側に飛んでいったのが見えました。近くに救護所があって、一命は取り留めたようですが』。

こうして、8月13日の夕刻豪雨のハルビン駅に到着した。一行は、避難先に指定されているハルビン市道理区にある『経緯学校』に向かった。『舗装の道なのに、豪雨で道が川のようになっていましたよ』。そして8月15日に、終戦を迎える。
『すぐに大量の中国国旗が振られていましたから、事前にこの日を中国側は知っていたんですね』。

 ソ連軍による、武装解除も
始まった。
『武装解除が終わった後、自分たちの荷物の中に50発ほどの銃弾を見つけたんです。慌てましたよう。もしソ連軍に見つかったら大変なことになりますから、こっそりトイレの中に捨てたんですよ』ミネ。

8月22日から23日にかけて、ソ連軍は日本人男子のいわゆる『男狩り』を始めた。占領当初のソ連兵士の質は、よくなかった。
『囚人の兵士が、多かったんです。捕らえた日本人の数も、ろくに数えることができないんです。15~16の少年が、多かったですよ』。
 
 ミネの夫・父・弟の3人が、連行されていった。残された女・子供・老人たちはどんなに不安な気持になっただろうか。その後、柳毛開拓団の人々は他の開拓団の一緒に、ソ連軍のトラックに乗せられ移動した。
『哈爾濱(ハルピン)の街中には、至るところに死体が転がっていました。飛行機の残骸なども、ありました』。

 ハルビン市の東側
にある、広広とした農園のようなところにたどり着いた。『新香坊難民収容所』である。常時25000名の日本人難民が流れ込み、4000名が食糧不足と病で死亡したハルビンを代表する収容所である。ソ連兵の、略奪や強姦もあった。特に女性を求めて、ソ連兵がやってきた。

『幼い子供がいれば、襲われない』という風評が流れ、ソ連兵がくると女たちはあたりの子供を抱いた。誰の子でもいいのである。ミネはもちろん英子をおんぶしたりしたが、
『ソ連兵がやってきた時に、とっさに英子を抱こうといたら、誰かが英子を持っていってしまったこともありました。いざという時は、舌をかんで死のうと思っていましたよ。また、何かの記念日だといっては、女を何人か出せなどとソ連軍から要望されたりしましたね。商売していた女性が、行かされたようですよ。
 危ない目にもあいました。一人でトイレに向かったところを、
複数のソ連兵にあとを付けられました。とっさにトイレのドアの内側に隠れて、難を逃れたこともあるんです』ミネ。

難民収容所の食糧事情も、悪化してきた。体力のないものから倒れていった。真っ先に犠牲になったのは、幼子の英子(ひでこ)であった。9月29日、はしかと肺炎であった。
『新香坊の収容所で、娘英子がはしかに肺炎を併発し40度以上の熱で頭を左右にふり、苦しむ娘を見ながら親として何もしてやることは出来ませんでした。栄養失調で、病気と闘うこともできないまま苦しんで死んでしまいました。やっと、楽になれたね。これが、よちよち歩きの出来るようになったわが娘に言ってやれる親としての精一杯の言葉でした』。

 ミネは、一時後悔し
たことがあった。
『英子を中国人に預ければ、死なずに済んだ』と、
『経緯学校に避難していた時に、中国人が子供を買いに来た事がありました。日本円で5000円という高額な値段で、売ってくれというのです。お金持ちだったんですね』。

 しかし、それは所詮結果論であった。残留孤児として生きていくのが幸福なのか、せめて実の母親のもとで亡くなるのが幸福なのか、これもまた誰にも分からないことであった。

その一方で、40日前にソ連軍に連行された男たちが奇跡的に戻ってきた。きわめて幸運な例と、考えることができる。60万人の日本人男性が、獲物狩りのように捕らえられシベリアに送られていくわけだから。しかし冬を、越さなければならなかった。

『真冬になると遺体は、馬車に乗せられ松花江に投げ込まれたと聞いています』。ハルビンの冬を、新香坊難民収容所で越すことは不可能に思えた。ミネたちは、自活の道を模索していく。

幸運なことに、中国人の経営する醤油工場で住み込みの仕事をすることができた。しかし、厳寒の地ハルビンでの越冬は熾烈を極めてた。12月30日母スエが発疹チフスで、父伝吉も翌年21年1月21日に盲腸炎で他界していった。
『暮れもおしせまった12月30日、母が発疹チフスにたおれました。下の弟勉を頼むと、言い残して息絶えました』。その直後ミネも、発疹チフスで生死をさまよっている。
『高熱のため気が遠くなり、朦朧とした意識の中、生死を彷徨いました。暗い林のじめじめした所をしばらく歩くと、まもなく明るいところにでました。川があり、川の向こうに虹のかかった青空が見えて綺麗な花畑があり、蝶が飛んでいました。その中で、母が英子をおぶっている姿が見えるので、私が急いで川を渡っていこうとすると、母が お前、来るな。来るなと何度も追い返えすのです。そのうち、頭が軽くなってきた感じがし、気がつくと満人が私にアヘンを吸わせてくれていたそうです』。こうして、ミネ自身は死の淵から抜け出す事ができた。

 こうして、魔のハルビンの冬は明けた。
『ある日、難民会に仕事を斡旋してもらってハルビン郊外の平房(へいぼう)に行ったことがありました。赤レンガの壊れた建物の、後片付けでした。今思うとそれは、731部隊の施設だったんですね。ある人は、白いネズミを見たと言っていました』。白いネズミとは、生物兵器として開発・実験に使用されたものであろう。

春の到来とともに、日本人の帰国も再開され始めた。ようやくミネたちの番が廻ってきたのは、秋が深まり始めた昭和21年9月25日であった。哈爾濱(ハルピン)から奉天(瀋陽シェンヤン)に南下し、更に乗船地のコロ島に進む。

コロ島で、乗船の順番を待つことになる。乗船を待つ人々は焦っていた。密告が、奨励されていた。民間人に紛れ込んでいる日本人旧軍属や戦犯容疑者などの、密告である。同じ日本人が、早期帰国の優遇措置目あての密告を重ねていた。

博多に辿りついたのは、ミネ・ミネの夫・ミヨ・弟の勉・清の5名であった。ミネは、両親そして娘を失った。夫の故郷新潟県を経て、北海道上湧別町に落ち着くことになる。弟勉は帰国後も体力が回復せず、昭和33年5月に他界している。両親を失い、娘を失った満州とは、いったい何であったのだろうか。

異国の地に   眠る霊魂(みたま)よ   安らかに 吉越ミネ


  
          〈現在もハルビンは大都市)                       〈現在の柳毛)     

          


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