HOME〉Manchuriar                                                 Manchuria >2004


       撫順フーシュンに眠る人々                                      
                   柳毛開拓団の運命Ⅲ 橋本悦子さん
 

 
中華人民共和国黒竜江省                                                                                
 
                                    
                                 〈現在の撫順。2004 8 9〉
                   
 


 
           〈巨大な西露天鉱 2002 8 15〉

        
       〈橋本悦子さん 撫順で 2004 8 09〉


 
        (柳毛小学校時代の悦子さん 中央〉
 
昭和20329日、柳毛国民学校の学芸会の祈念写真。小学校6年生だった橋本悦子さんは、後列でセーラー服を着ている。『おくりものという、劇をしたんです。』悦子。


 
            〈現在の柳毛小学校〉


 


 
   〈現在の撫順 老虎台で 橋本さん後藤さん君島さん)


  
     〈千金牧場を探すが、結果的に分からなかった〉


  


 撫順(フーシュン)は、アジア有数の露天掘りの炭鉱として有名である。この町の中心には、巨大な露天掘りの炭鉱が掘りぬかれている。複数ある露天掘り鉱の中でも、縦3㎞横7㎞にも及ぶ西露天鉱は、圧倒的な迫力で現在も私たちに迫ってくる。この、炭鉱をめぐり多くの人々の運命が変えられていった。

1905年日露戦争の直後、まず日本が手に入れたのはこの豊かな石炭資源である。そして、満州事変以後は中国人を強制労働に駆りだした。奴隷とされた強制労働の末路は、死である。
 過酷な労働の果てに、次々と死亡する中国人労働者を埋め合わせするために、また更に中国人労働者が各地から、日本人に騙されあるいは囚われの身となって補充されていった。年間2万人もの労働者が死亡した年も、あったという。死亡した労働者は、鉱山の一角に捨てられた。捨てられた場所は、『万人坑(ばんじんこう)』と呼ばれ、この町以外にも旧満州を中心に中国各地に数多く存在している。こうして、数え切れないほどの中国人がこの鉱山周辺に眠っている。
 しかし、眠っているのは中国人だけではなかった。それまで加害者であった日本人も、ソ連参戦と敗戦の中で一転してここで尊い命を数多く失う事になっていく。

 この撫順(フーシュン)で多くの家族をなくした一人に、橋本悦子さんがいる。橋本悦子(敬称略)は旧姓窪田悦子、昭和8年に札幌市で生まれた後、幼い頃に北海道清里町札弦地区に移っている。
 一家が満州に渡ったのは、先に紹介した吉越ミネとおなじ昭和16年3月のことである。一旦は、柳毛釧路開拓団に入植した。
 農業指導員だった父直一の関係で、近くの永安屯開拓団にも一時移っている。父直一は主に、北海道の酪農を指導していた。
 永安屯(えいあんとん)開拓団とは、哈達河(ハタホ)開拓団の隣に位置し、逃避行のさいに集団自決などの悲惨な末路を哈達河開拓団同様に辿った開拓団である。

『いろんな県の人が、集まってきていましたよ。私は、本部集落にいましたので周りは日本人ばかりでした。永安屯開拓団は、寄宿舎を備えていましたので全校生徒が、冬の間寄宿舎に入っていました。とても楽しい学校生活でした。私の家は、学校のとなりでした』。

窪田家は、昭和19年に再び柳毛釧路開拓団に戻っている。初等科の6年生だった悦子は、当時授業で習った『中国語』の歌などを現在も記憶している。
『この歌を教えてくれた先生本人は忘れているのに、私たちは今でも覚えているんです』。

 ソ連参戦から哈爾濱(ハルピン)へ
の逃避行は、先の吉越ミネ一家と一緒であった。
 哈爾濱(ハルピン)での難民所での暮らしも、途中までは一緒である。ソ連兵や朝鮮人の略奪にあい、恐怖の日々を送っていく。10月19日に8人兄弟のうち、4歳の妹修子(のぶこ)が死亡している。
 
 柳毛釧路開拓団が哈爾濱(ハルピン)で解散したあと、多くの人々が厳しい冬を前に南下した。少しでも暖かい南部へ、そして少しでも祖国に近づくために。撫順(フーシュン)にいけば仕事があるらしい、何とか冬が越せるだろうと人々は考えた。11月上旬に、哈爾濱(ハルピン)から列車に乗り込んだ。
『新京(長春)で、一泊しました。奉天(瀋陽)では、ソ連兵に襲われたんです。有蓋貨車(屋根などある)だったので、助かったんです』。
 
 撫順(フーシュン)にたどり着いた一家は、難民収容所になっている老虎台の採炭事務所に収容された。そこには、既に2000名の日本人が押し込められていた。
『鉄筋の頑丈な建物でしたが、一室に100人以上の人がいました。コンクリートの床にアンペラを敷いただけの上に、衣類を敷き身を横たえるだけのスペースしかありませんでした』。 働ける者は、働いた。
『賃金はまとめて日本人の団体に入るわけで、働ける者が減れば減るほど、団体に入る賃金も食べ物も減ってしまう仕組みになっていました』悦子。
    老 虎 台

老虎台(ろうこだい)というかつての採炭事務所のあった地区には、現在も炭坑の施設があり、当時を忍ぶ事が出来る。200489日に訪問したが、地面を見つめる橋本悦子さんは、
『この黒い土に、見覚えがあります』と話す。
『私は、あの立坑に入った記憶がある』そう話し始めたのは、後藤稔(北海道網走市)さんである。後藤さん一家も、この撫順に避難民としてやってきている。
『この幅の広い線路に、記憶があります』。コンクリートの枕木の間にある砂利は、凹凸が激しくとても歩きにくい。
『当時も、こんな感じでしたよ。歩きにくい線路を弟たちを連れ石炭を拾っては、町に行って売り歩いて命を繋いでいました。

 下の10歳の弟がいやがっていましたが、結構いい商売になったんですよ。でも線路を歩いている時に、銃で撃たれそうになったこともありましたよ』と話すのは、君島節子(北海道清里町)さんである。昨日のことのように話すその鮮明な三人の記憶に、私たちは驚かされた。

やがて、食糧不足と同時に本格的な冬がやってきた。食糧は、白米に大豆が混ぜたものであった。とても喉を通る代物ではなかったが、やがてそれすら手に入らぬようになり、高粱や粟(あわ)が、主食となった。それとともに、栄養失調のため、病人や死者が出始めた。

『母が、発疹チフスに罹りました。その時はまだ時計などを売って、食べ物を手に入れたりする事が出来たんです』。
 そうして、母は一命を取り留めた。しかし、母の看病疲れもあり、姉嘉子(よしこ)が、12月7日に息を引き取った。その後を追うように、兄英夫も12月17日に他界していった。
『2人とも、松の木の下に埋めました。ほんの少しの土を、かぶせただけです。運ぶ時も、丸太棒に縛り付けて運ばれて行きました。線香を上げることも、もう禁じられていたんです』。越冬は、大変な事業であった。

『12月31日の夕刻、アヒルを盗んだ等のかどで、日本人2人が広場で処刑されました。恐ろしくて見ることはしませんでしたが、日本刀で首を切り落とされたという事です』。

 こうしてあまりにも悲惨な思いで、正月を迎えていく。元旦には、一切れの餅が配られたという。
『働かざるもの、食うべからず。幼い子供・体力が弱った人から、栄養失調でバタバタと死んでいきました』。そして3月28日、春を直前に父が息を引き取った。
『父は、生きて日本の土を踏むんだと言っていました。もう、涙は出ませんでした。死んだ者の方が幸福だと、誰もが思っていたんです。 
 父の遺体はもう土をかけることもできずに、千金牧場というところに放置されたんです』。まさに、そこは死体捨
て場であった。
『翌日、もう一度父の姿を見に行ったら、犬にお腹のあたりが食べられていました』。なんたる、地獄絵で在ろうか。
『あたりは、遺体が散らばっていました。犬が、遺体を食べていました。肉が食いはがされ、ピンク色の骨だけになっていましたよ。あまりにもきれいに肉がなくなっているのですから、街中で餃子の中身になっているなどの噂もありました』 悦子。

千金(せんきん)牧場

牧場は住宅地に変わっていた。橋本悦子さんは、この日(2004年8月9日)の朝早くタクシーをチャーターして父親の眠る場所を探した。その後、合流した私達に、
『すっかり変わってしまって、場所を特定することは出来ませんでした』橋本悦子さんは、ややがっかりした表情を見せる。
『もう一度、行ってみましょう』。私達のバスは、緩やかな斜面の道を南に下った。『千金』という地名は、地図にも残っている。
 緩やかな道は、平頂山事件のときに反日勢力の土賊が登ってきた道でもある。かつて牧場だったあたりも、住宅地やとうもろこし畑に変わっていた。
 千金に眠るみたまにとどけよと、菊花あずける平山の庭
 千金の野に埋もれし半世紀、声無き叫び耳に騒がし
戦争の犠牲を一身に集めて逝った、肉親よ、同胞よ、安らかに眠りたまえ、鎮まりたまえ。  いつの日か墓参に参らん。千金牧場よ、老虎台の空よ、いつまでも。
窪田悦子当時13歳。


    帰 国

 ようやく、春が訪れた。当初2000名いた日本人難民も、600名ほどに数が減っていた。春と同時に、中国国内の内戦も
始まった。中国国民党軍と共産党軍の、戦いである。
『私の頭の直ぐ上を、弾が飛んでいきましたね。暴動も起こって、私たちの採炭事務所が襲われたことがありました』。鉄筋の頑丈な建物だったことが、幸いしている。
『鉄の柵があって、竹やりなどで武装した中国人を入り口で食い止めましたよ』。やがて、帰国が決まった。悦子たちも、帰国の準備を始めている。中国人に預けたままの妹和子も、連れて帰りたいのは当然のことであった。
『私が、和子を引き取りにいったんです。ところが、中国人の養母に包丁で脅されたんですよ』。その後結局は、大人たちの奔走で妹和子を引き取ることができた。しかし、乗船地の胡蘆(ころ)島では、和子の名が乗船名簿になかった。妹和子は、別の便で日本にたどり着いている。

 しかし安心したのもつかの間、

『和子は、翌年には亡くなったんです』
 ようやくの思いで祖国にたどり着いた妹、運命とはどこまでも悲しい。


                          BEFORE〈〈    〉〉NEXT

inserted by FC2 system