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     プロローグ釧路柳毛開拓団とは                                      
                       柳毛開拓団の運命Ⅰ
                         
りゅうもう
 
 中華人民共和国黒竜江省                                                                                
 

 
            〈柳毛開拓団の跡地〉

 
        
 
        〈現在の中央小学校 2004 10 21〉

 


 
             〈現在の滴道駅〉

 
         〈現在も柳毛集落の中は未舗装〉

 
      〈現在のハルビンは高層ビルが立ち並ぶ〉

 
ここでこれから紹介する柳毛釧路開拓団の成り立ちと、その後辿った道を、岡崎貞一郎氏の『満州の思い出・・私の歩いた道』や関係者の証言などをもとに、まとめて見たい。

入植地の正式名は、満州国東安省鶏寧県滴道街柳毛河屯第1次釧路開拓団である。昭和15年3月11日に先遣隊が訪問し、昭和16年3月20日を入植日としている。団長は今野善吉、計56戸172名という小規模な開拓団であり、北海道の釧路・北見・石狩を出身地としていた。附近の開拓団としては、城子河・蘭嶺そして哈達河(ハタホ)の各開拓団がある。
 住宅は、現地中国人の家屋を買収し、暖房も在来のオンドル式かまたはこれを改造した北海道式ストーブを使用している。入植した人々は当初、政府を信頼し、国策に添う開拓という英雄的な冒険心や五族協和の美しい夢を抱いていた。北海道と気候風土の似ている満州に、北海道農法普及の使命を担い、満州に骨を埋める覚悟であったわけである。

農地は肥沃で、肥料を使用しなくとも1反につき8俵ほどの収穫があった。一軒につき7haの農地が割り当てられ、畑地5ha・水田2haの割合が標準となっていた。広い農地を家族だけで耕作しきれない場合は、現地中国人が雇われていた。
 収穫後は割り当て出荷量を興農合作社へ供出することが義務付けられ、あまった農作物は自由価格で売買する事ができた。学校として、『柳毛河在満国民学校』が建てられ、初等科6学年・高等科2学年・そして青年学校が含まれていた。

8月9日のソ連が参戦すると、附近の駐留日本軍の兵舎・建造物は自爆し、住民の家屋も焼き払ってしまった。関東軍はソ連軍の参戦をいち早く察知し、真っ先に後退を開始したわけだ。
『直ちに、避難せよ』という鶏寧県長からの伝達が開拓団に届いたのは、翌日8月10日午前11時ころであった。後退にあたっては、まず軍関係の家族を次に官庁関係の一般邦人を後退させ、開拓団民は最後とされたのである。

開拓団は最後というより、捨てさられる『棄民』とされたのがその実態である。柳毛釧路開拓団は、午後2時には集合を終えて滴道駅へと馬車を走らせた。滴道附近には炭鉱が三箇所あり、ソ連参戦と同時に強制労働させられていた中国人労働者たちが解放されていた。その現地人たちの暴動が噂され、不気味な雰囲気が漂っていたという。

滴道の日本人住宅にも火が放たれ、猛火に包まれていた。団員たちに目的地などなく、ただただ南を目指すことになった。
 最終の無蓋車に乗車したのは、既に真夜中であった。普通であれば4時間ほどの距離である牡丹江にたどり着いたのは、11日の夕刻であった。

牡丹江に到着すると直ぐに、口頭での男たちに召集命令が下された。男たちはここで、家族と引き離されることとなった。
 家族を駅構内に残し、男たちは指定された日本人中学校に集められた。
『牡丹江の四〇三高地に、ソ連軍落下傘部隊が降下し、それを撃滅する』という命令が伝えられたが、命令もとである陸軍大佐らはさっさと姿をくらませてしまった。結局どうすることも出来ず、男たちは駅構内の家族のもとに戻ることとなった。

ハルビンへ

そして、一行は哈爾濱(ハルピン)へ向かう。一人の婦人が轢死するのは、『一面波』あたりである。豪雨の哈爾濱(ハルピン)に到着するのは、8月13日の夕刻であった。
 一行は難民収容所員の誘導で経緯小学校に進んだが、混乱の中で5名の行方不明者を出している。哈爾濱市役所と交渉し、1ヵ月分の食糧を確保したが、後日略奪されてしまっている。

8月14日、『明日ラジオで、特別放送がある』と報じられた。
『多分、日本軍のウラジオ陥落のニュースだ』と、人々は噂し前祝として祝杯までしてしまったという。終戦の8月15日後の19日午前10時、ソ連軍による武装解除が行われた。

8月23日午後3時頃にはソ連兵が乱入し、16歳以上の日本人男子は身体検査ののち身柄を拘束された。ソ連軍の、『男狩り』である。男たちは香坊にある日本軍の馬屋に、閉じ込められた。
 借り集められた男たちはこの3日後の8月26日に、僅か一握りの大豆が支給され、更に一週間後に列車と徒歩で行軍させられた。途中の食糧は、歩きながらあたりの畑に入り込み農作物を、手にいれるしか方法はなかった。横道河子・樺林を経て皮肉な事に牡丹江にたどり着いた。

ソ連軍は、満州鉄道にソ連の貨車が走れるように、早速線路巾を広げる工事をしている。そして貨車に日本軍の物資を次々に積み込み、そのままソ連領内に持ち去る作業を続けていた。
 10月6日に、男たちの抑留が解除されて再び哈爾濱(ハルピン)に戻る事になった。シベリア送りにならない奇跡的な措置を受けたが、哈爾濱の収容所に戻ると、発疹チフスなどにより死者が続出していく。団長の今野善吉なども、死亡している。

死体は、空き地に掘られた穴に埋葬されていったが、西本願寺収容所の場合は腐敗が酷く、一度埋葬した裸体の死者を掘り返して馬車に積み、松花江(しょうかこう)に流したという。全くもって、哀れな姿であったという。
   開拓団の解散

 8月25日ソ連軍は、哈爾濱(ハルピン)地区の日本人の資産を凍結した。預金の払い戻しを停止したわけで、避難民の持参した預金通帳は無用の長物となってしまう。
 ソ連軍の蛮行は、無論それで済むはずがなかった。日本人への略奪・追いはぎ・強姦などが承知のとおりである。
 12月10日に、柳毛釧路開拓団の総会が開かれている。そこで、恐ろしい冬を前に解散が決定された。収容所に残るもの、哈爾濱市内にでて中国人に職を求めるもの、そして撫順などに南下するものに分かれていく。

収容所の中心的存在であった新香坊収容所に収容されていた人々は、15000名といわれている。90パーセントが罹病し、約4000名が死亡したと岡崎氏等は記しているが正確な統計は存在しない。

この新香坊収容所は、ソ連軍の直轄であり所長もソ連軍の中佐であったが、日本人の或る男が、通訳を担当していた。この日本人は、避難民に『所持金を出せ。出さないと銃殺だ』と流言を発して、避難民から金銭を巻き上げていた。

そして、その金で豪遊を繰返していた。彼は、恨みを買い同じ日本人に殺害されたという。岡崎貞一郎氏自身はその後、哈爾濱(ハルピン)で中国人豪商世一堂薬房に住み込み口を見つけ越冬することに、成功している。
 昭和21年に入り、帰国が決まり9月から10月にかけて次々と南下が始まった。多くはコロ島より乗船し・博多に上陸していく。昭和51年に岡崎貞一郎氏がまとめた資料によると、
  柳毛釧路開拓団入植時 合計200名  引き揚げ者 106名  開戦による行方不明者  19名    現地人の養子  5名    現地人と結婚       2名    となっている。

 しかしその翌年の昭和52年に発行された『柳毛会会員名簿』を見ると、開拓団員の総数は349名、引き揚げまでに死亡した総数は125名となっている。中国残留婦人となった方は3名、中国人の養子となった方は6名である。

 確かに柳毛釧路開拓団は、ソ連国境地帯に近いとはいえ鉄道沿線のため、鉄道で哈爾濱(ハルピン)まで避難する事ができた幸運な開拓団と言える。しかし、引き揚げまでに約半分の人々が命を失っていることは、見逃せない。残留孤児も残留婦人も比較的少ない数で済んでいることに、少しだけほっとさせられるが、それはあくまで数字上のことである。これらの数字の一人一人に、言葉に言い表せない苦悩と決して忘れられない悲劇があったはずである


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