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     佐渡開拓団事件と清和開拓団                      
                  
 
 
中華人民共和国黒竜江省                                                                                
 

 
          〈清和開拓団の人々〉

        
              〈左が宇井つねさん〉

  
          〈NHKドラマ「大地の子」のシーン〉

     
              〈押田九十九さん〉

  
      〈ドラマの中でソ連機が撃ち落されるシーン〉

 
      〈下川町渓和地区からの眺め 2003 4 4〉

  

   逃避行と帰国

残された清和開拓団員のうち、371名がここで死亡した。無論、生死は確認されていない。押田九十九の妻・子・妻の親族の合計10名あまりも、この中に含まれている。
『私は、この団の実情を祖国に伝えるために、家族を残して一人脱出したんです』押田九十九。

 26日午後7時にも、健脚の7
0名が牡丹江を目指して脱出している。途中現地人に攻撃を受け、梅川団長は戦死している。押田九十九と片岡つねも運命的な選択ののち、牡丹江に向かって逃避行を続けた。つねには、1歳と3歳の子がおり、夫とともに背負った。

『山道には、死体がたくさんありました。夏ですから、すぐにウジも湧くんです。母親を失った赤ん坊が、山中で這っていました。9月になって、牡丹江の近くの海林あたりで、日本軍兵士に逢い終戦を知らされました。
 私たちは敗戦を知り、涙が乾くまで泣きました。更にその日本兵の薦めで、ソ連軍に投降しました。裸にされて河に入れられ、消毒されましたよ。ソ連軍兵士には、よく狙われました。顔に泥をぬり、女性であることを隠したりしましたが』つね。

牡丹江から哈爾濱、そして長春(当時の新京)にたどり着く。
『新京についた時は靴もなく、裸足で歩きました。町外れの兵舎に収容されましたが、持っていた南京袋を蒲団代わりにしていました。餅を売ったりして生きていましたが、冬が迫ってきました』。

少しでも南を目指し、一行は再び列車に乗った。瀋陽(シェンヤン)まで、無蓋車ながらも列車に乗り比較的順調に南下をする。
『リーダーの要領が、よかったんですね。賄賂をこっそり渡し、瀋陽(奉天 )まで行けました』押田九十九。

 その瀋陽(シェンヤン)で、越冬することになる。駅前の国際倉庫で、越冬することになった。押田九十九は紡績工場、片岡つねはクリーム工場という具合に、仕事にもありつけたが、満州での越冬はやはり死者を増産した。発疹チフスにより、つねの両親・弟・妹が相次いで死亡した。

『難民収容所には、大きな穴があらかじめ掘られていて、何千人も入れられたんです』つね。
『マグロのように、人間が凍っていましたよ』九十九。

46年5月25日帰国の途についた。コロ島から乗船し6月6日に舞鶴に上陸し、なんとか柏崎に帰還することができた。清和開拓団の中で、日本に帰国できたのは50名、そのうち20名はまもなく病死し、実質的な生存は30名足らずであった。
 そして、13戸22名が1946年11月から、現在の下川町に入植を始めている。つねは、こうして二人の子供・両親・弟・妹を失った。唯一肉親の生き残りの夫国平は苦労がたたり、1957年に結核のため病死している。押田九十九は、全ての肉親を満州で失っている。

下川町渓和地区の入植者は1977年に、7戸にまで減少したが、渓和地区の高台に慰霊碑を昭和52年に建立し現在にいたっている。その満州清和開拓団殉難供養之碑には、その7戸の氏名が記されている。
大橋 庄次   中山 四郎   中村鹿十郎  押田九十九茂野 留一   志田 英男   溝口  博  である。
 この供養碑は、入植地の一番上の高台に建てられていた。雪に覆われ触れることは出来なかったが、その地からは下川町の全貌が見渡せる、絶景の地であった。ここを、宇井つねと現在の押田九十九の奥さんの案内で訪問した。

 寒風が、吹きすさんでいた。満州での悲劇のあとの、この地での開拓もまた、苦労の連続であっただろう。帰り際そのお2人が、いつまでも私の車に手を振ってくださる姿が、印象的であった。


 
 これまで触れてきた『麻山事件』をはじめとする悲惨な集団自決・集団虐殺事件は、数多い。佐渡開拓団事件と葛根廟事件は麻山事件を含めて、満州三大悲劇といわれている。その中でも『佐渡開拓団事件』は有名なNHKドラマ『大地の子』のモデルにもなった事件である。

1945年8月27日、ソ連参戦により入植地を追われた日本人開拓団はハルピンへの逃避行の途中、ソ連軍に遭遇した。
 ソ連軍の偵察機を打ち落としたため報復があり、もはや助からぬと観念した開拓団員はソ連軍の戦車隊へ突撃し「玉砕」し、女たちは子供をつれて自決した。このソ連軍の攻撃で950名が死亡し、また同時に引き起こされた集団自決で514名が亡くなったとされている。死者は合計1464人にのぼり、満州最大の悲劇といわれている。 

場所は、黒龍江省七台河市郊外にある。このあたりは、かつて佐渡と呼ばれた。この事件にかかわる、資料は非常に少ない。
 合田一道氏の数多い著書の中1978年に発行された『死の逃避行』に、佐渡開拓団事件に関する記述を見つけることが出来た。
 それによると、数少ない事件経験者の中に押田九十九・大橋庄次さんの妻すえのさん・中山四郎さんの妻やよいさんの名を見つけた。何と、お住まいは北海道である。開拓団の名は、『清和開拓団』。

そして、そして関係者の所在地は、中川郡下川町渓和地区。この本が発行されてから既に、25年が経過していた。
『なんとか、ご健在でいてくれ』。私は願いを込めて、電話番号を調べた。2003年4月4日、押田九十九さんのご健在を確認した。息子さんの奥さんが、電話の応対をしてくれた。
『確かに、当時の奥さんとお子さんを事件で亡くしていますよ。話は、してくれると思います』。私は遅い春の訪れの中、下川町に向かった。

 壊滅した『清和開拓団』

 ソ連国境近くの東安省虎林県清和地区に、新潟県出身者を中心とする第7次『清和開拓団』が、入植を開始したのは1938年である。
 1941年には、7部落189戸883名の入植が完了している(『鎮魂』阿部正雄著 1980年より)。
 結果的に清和開拓団は、833名のうち実に654名が戦闘・襲撃・自決で死亡し、生き残った人々の多くも難民収容所で死亡し、翌年日本の土を踏んだのはわずか50名という全滅に等しい悲劇の開拓団である。そのうちの20名も、僅かの期間で病死している。

現在北海道名寄市に近い下川町渓和地区に在住している押田九十九(大正4年生敬称略)も、新潟県柏崎市より山間に15㎞入った刈羽郡鵜川村の出身であった。
 訪問した当日は、押田氏ともうひとかたのご婦人がいらしていた。同じ清和開拓団第1部落出身で、一緒に帰国を果たした宇井つね(当時片岡つね 大正12年生)であった。満87歳の九十九さんは記憶の曖昧なところもあるが、79歳のつねさんは、記憶も言葉もかなりはっきりとしていた。おふたりの証言をもとに、『佐渡開拓団事件』などに至る経緯をまとめてみる。

 宇井つねは、当時東京都に在住していたが、新潟県出身の父親の決断をもとに18歳で開拓団に参加し、翌年19歳の時に現地で片岡国平と結婚している。片岡国平(大正2年生)もまた、新潟県刈羽郡武石村出身である。

45年の根こそぎ動員では、押田九十九も招集を受けたが、疾病の関係で4日後で開拓団に戻っている。片岡国平は33歳ながら、奇跡的に召集からまぬがれた。押田九十九は、1938年の結婚後すぐに開拓団に参加している。

ソ連参戦のときは、どのような様子だったので在ろうか。
『8月8日から雨がふり、真夜中にひどい雨音で目が覚めました。同時に、キュンキュンという聞きなれない爆音がしていました』つね。1945年8月9日朝、退避命令が下った。夫の国平は、他の部落に連絡に馬で走っており、つねは3歳と1歳の子供を連れて本部に集合した。200名くらいの人々が、集まっていたという。その後、一団は清和駅に向かったが、避難列車はすでに出た後であった。または、途中駅で戻ってしまったらしい。

 ともかくも、避難列車に乗れなかったことが、大きな運命
の分かれ目のひとつになる。子供たちを馬車にのせ、つねはなれない手綱を必死で引いた。
『隣の、第6次開拓団についたのですが、避難した後で誰もいませんでした』。その日の夕刻、虎林県公署にたどり着いたが、建物は空爆を受けて燃え上がり、日本人はすでに誰も居なかった。役人・関東軍関係者はいち早く安全な後方に移動し、召集者を除いた清和開拓団総員658名は完全に『棄民』にされていたのである。

 現地人が物取りを目的に、空き家になっていた日本
人宅に出入りしていた。
『ぽつぽつ雨が降ってきましたが、雨具もなく濡れながら進みました。ぬかるみに馬車の車輪が埋まり、馬も人も惨めでした』。つね

『道なんて言えるものでは、ありません。獣道のようなところを、進むんです』押田九十九。
『朝になり、沼に水を汲みにいくと驚きました。戦闘があったらしく、死体がたくさん沼に浮いていたんです。その後、馬車を壊して燃料にして調理をして食事をしました』。

 夜行軍の末、8月10日朝完達嶺義勇隊開拓団に到着した。この日は、午後からまた雨となり、その後雨の中の野営を繰返すことになる。12日、東索倫開拓団に到着。そこで、迅速な移動のために一切の荷物を、その場に捨てている。この日から13日にかけ宝清付近で、後尾のグループは地元満人に襲撃を受け、殆んどが全滅することになる(宝清事件)。


『私たちは宝清開拓団につきましたが、人は誰もいませんでした。皆で家の中に入りました。タンスの中から赤い着物を出して、おどけている人もいました。休む間もなく、匪賊が襲ってくるという連絡が入り、また馬車に皆を乗せて走りました。何日も眠っていないので、手綱を持ちながら居眠りしてしまいますが、後ろの中沢さんの奥さんが私の背中を叩いて、気合いをかけてくれました』。

 清和開拓団は、7つの部落に分かれている。押田九十九たちは、第1部落であった。つまり、先頭の集団であったことが幸運であった。後方の、第6・7部落は襲撃により殆どが全滅しているからである。その死者は合計181名という数に、のぼっている。

『私の夫が現れ、ほっとしました。馬車は壊れてしまい、夫と子供を1人づつ背負って進みました。途中で歩く事が出来ずに留まった親子も、大勢いましたよ。私たちの清和開拓団は、避難する最後尾の開拓団だったのです。現地の人は、私達日本人を嫌がっていました。塩を貰いに行っても、追い返されました。昼間は危険で、夜だけ行動していました。食べ物は、現地の畑のいもやとうもろこしを、生で食べました。火を使うことが、できなかったからです。やはり、途中で戦闘もありました。
 15歳以上の人は銃を取り、戦いました。私の夫のあごに、銃弾が貫通したんです。上の歯が、全部なくなったんですよ。夫は、あごがなくなったら自決しようと考えていたんです。でも、本当に薬もないのに完治したんです。 精神力が、強かったんですね。
とても、痛かったと思います』 宇井つね。

 つねたちの集団は、既に30名くらいになっていた。ようやく、線路にでる。ここでやはり大勢では危険という事で、更に小グループに分かれていく。そして8月20日に、佐渡開拓団に到着。

『食べ物がないので、ここまで連れてきた馬を殺して、ブリキの上で焼いて食べました。子供たちが、栄養失調で死に始めていましたね』

 その後、何度も血路をひらこうとするが土民の襲撃を受け、そのたびに佐渡開拓団に戻っている。そして23日、やはり佐渡開拓団に戻ることになる。

  佐渡開拓団事件

佐渡開拓団には約7つの開拓団が、避難していた。萬金山高社郷開拓団(420名がほぼ全滅)・尖山更科郷・東索林埴科郷・東横林南信濃・南哈馬笠間・共哈知阿知郷など、合計約2300名とされている。 

 24日、ソ連軍機が不時着した。いきりたった日本の男たちが、発砲した結果である。これは、ドラマ『大地の子』の有名なシーンである。そしてソ連の飛行機を焼却し、軽機関銃2丁を手に入れている。

『私達は、その飛行機を見ましたよ』つね。
『そうです。日本の飛行機かと思って、助けを求めるように手をふったりしたんですよ。ビラを撒いたことは、分かりませんが』宇井つね

 佐渡開拓団地は、騒然となった。ソ連軍の報復が予想され、混乱した。その後の対応は、各開拓団に任されることになる。
『自決をはじめる人も居ました。家族を銃で始末している人もいました』九十九

 清和開拓団内部の意見も、分裂している。
『私たちは、脱出することにしたんです。まずは、馬を殺して食べました。肉を干して、保存食にして携行しましたよ。10名ずつの班に分かれて、25日の夜に脱出したんです』。これが、運命的な選択であった。

それは翌日26日、白旗を掲げたソ連軍トラック3台が日本人女性を目的にやってきたが、それに対して日本人男子が攻撃をあびせた。ソ連軍兵士30名のうち、20数名が殺害されソ連軍は激怒した。8月27日ソ連軍は1200名の部隊で、未明より佐渡開拓団に対して攻撃を開始した。そして、戦死と自決が錯綜した。女子18名のみが、生き残ったとされている。

     

      〈渓和地区にある清和開拓団の慰霊碑〉 

 昭和52年に建てられた供養碑には、8月27日の佐渡開拓団事件の日を命日としている。200344日は雪の下に埋まっていた。


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