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  麻山事件 Ⅳ 滝沢麗子さん
  
                                      
  
中華人民共和国黒竜江省                                                                                
   
     
          〈滝沢麗子さんと鈴木幸子さん〉                     〈麗子さん親子   2003 8 26〉
                                 
 
 
     

 
    

  
      〈1994年帰国を果たしたときの NHKニュース〉

  
    〈1980年に風穴が開けられた。左から馬場さん
                      スミ先生 滝沢麗子〉


  

  
         〈1980年NHK特集「再会」から〉




『私の母たちは、日本の兵隊に殺されました』
『えっっっ?  違うわよ。日本の兵隊ではなく、同じ開拓団のひとたちよ』滝沢麗子(たきざわれいこ)の言葉を、鈴木幸子が遮った。敬称略

 2003年8月26日、北海道由仁町の岩崎スミ宅での出来事である。9年前の94年に永住帰国を果たした滝沢麗子は、この日の前日、長男一郎と三女のよしえ、そしてその夫小林波男を伴って、9年ぶりに恩師である岩崎スミ宅を訪問し、同時に鈴木幸子とも久しぶりの再会を果たしていた。

 岩崎スミ・鈴木幸子・滝沢麗子の再会にあたり、岩崎スミが麗子に、
『当時のことを、お話してあげて頂戴』と促した。
 滝沢麗子が、小林波男の通訳を介して、いきなり話し始めた内容がこれであった。

 滝澤麗子に初めて会ったばかりの私は、いきなりこのシーンを目のあたりにし、狼狽してしまった。滝沢麗子は、『麻山事件』の内容を、それまでの58年間このように認識していたのである。滝沢麗子に、当時のことを伺うことになった。会ったばかりの本人への質問は、辛いものであった。
『自決するときは、母親と一緒にいました。私たちには、自決用の薬が配られました。母親は、私に飲んじゃだめと言い、私たちは口にしなかったんです。その後銃声が響き、私は気を失いました。
 夜中に一度気がつきましたが、真っ暗闇の中で私は母親の両手に抱えられ、守ってもらったことに気がつきました。夜が明けて、周りの様子がわかりました。
 母親の両手の中から這い出すと、母親は死んでいました。そして、母の背中を見ると、日本刀で切られたあとがあったのです。 その後喉が渇いて、沢水を飲もうとすると水は血で真っ赤になっていました』

 証言する滝沢麗子の顔は苦渋に満ち、私たちもすまない気持ちで胸がいっぱいになってくる。

 その後、滝沢麗子は鈴木幸子たち7名と一緒になり、張学政ら中国人に青竜の村に連れていかれ、そして村人に分配され引き取られていく。事件から2日後、45年8月14日のことである。

滝沢麗子の父滝沢慶光は北海道美幌町の出身で、北海道農業を満州に広げるための、北海道実験農場の長という重職にあった。事件の日は応召され、『麻山』の事件現場にはいなかった。

『兄弟は、何人でしたか?』滝沢麗子は、しばらく考えた後
『ワン ラ(忘れました)』という言葉が返ってきた。

『自分の名前は、覚えていましたか?』滝沢麗子は同じように、暫く考えた後に、
『ワン ラ(忘れました)』と答えた。

 当時幼い小学校一年生(1938年10月9日生)では、兄弟の数はもちろん自分の名前さえ記憶から消されてしまうのである。
 自分の名前は、何なのか? 自分はいったい何者であるのか?それを知るには、35年の年月が必要であった。

    流  転

青竜にいた滝沢麗子は、すぐに養父母とともに各地を転々とすることになる。
『チーシー(鶏西)やパーメントン(八面通)に行きました。帰国する時は、ムータンチャン(牡丹江)です』
『35年後に、いないとばかり思っていた父親から突然手紙が来ました』
 岩崎スミらの尽力で、厚生省が動いた。もちろん、鈴木幸子の記憶と幸子の父高橋秀雄の記録が大きな力となった。
 その1980年の35年ぶりの再会は、NHK特集『再会』としてこの年放映され、大きな反響を呼んだ。とにかく、この番組の中での先生岩崎スミと中国に残された滝沢麗子・馬場周子たちとの『再会』は劇的であった。
 言葉が通じない先生と教え子たちは、『お馬の親子は仲良しこよし、いつでも一緒に』と歌いお互いを確認しあうシーンが心を打つ。
『あの時私はね、泣きすぎてしまって、目がよく見えなくなってしまったくらいだったんですよ』岩崎スミ。

その後、滝澤麗子は一時帰国を経験した後1994年に永住帰国することとなり、現在は名古屋市に居を構えている。

岩崎 スミ(敬称略)とお会いしたのは、この時が初めてであった。しかし私は、初めてあった気がしなかった。テレビや新聞・手紙・電話で数限りなく触れていたからであろう。
 お会いした第一印象も、『テレビと同じだ。何も変わっていない』と感じた。思った以上に岩崎先生はお元気で、記憶も考えもはっきりとしていた。

『私も、ソ連軍にねらわれたんですよ。命からがら逃げたんです。髪の毛を刈って、女であることを隠していたんですけどね。
 厚生省は一人でも多く、残留孤児を認めようとしないんですよ。本当に冷たいんです』

 この60年岩崎先生は、『麻山』とそこで亡くなった教え子たちのためだけに生きてきた。生活を切りつめて捻出したお金を、『麻山』事件の現場の学校に寄付してきた。

 その後、由仁町を後にした私たちは、北広島市の中国料理店に向かった。私の車の後席に、鈴木幸子と滝沢麗子が同席することになった。中国語での、2人の会話は聞いていてとてもほほえましい。
『名古屋は36度にもなって、暑くて大変よ。北海道は、涼しくていいわ』など会話が弾んだ。しかし難しい内容になると、鈴木幸子は困惑する。
 滝沢麗子は、現在もほとんど日本語が話せない。58年前、幼い2人は勿論日本語で言葉を交わしていた。

 そしてあの日45年8月14日、この2人は張学政の馬車に乗せられ、進撃するソ連軍の戦車の列とすれ違った。戦車には、機関銃を持った兵士が満載されていた。2人はソ連軍の姿を目にして、恐怖に震えた。どんなにか、怖かった事だろう。
 それから58年、2人の間から日本語が奪われた。

 
   
   〈一時帰国したときの、前列 馬場周子さん 麗子さん 幸子さん。後列高橋秀雄さんと岩崎スミ先生〉
                                   〈馬場周子さんは、帰国することなく中国で生活を続けた〉

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