HOME〉Malaysia Singapore                                         Malaysia Singapore >2006



            
  シンガポール作戦の死闘
                               


  
マレーシア  シンガポール                       歴教協『歴史地理教育』2006年8月号に掲載
   
    
                                                
 
 
        〈MIYATAの文字がある自転車〉
    
  
       〈列車はジョホールバルに到着 2006 1 5〉

     


    


〈武田義雄さん〉





 
         〈ジョホールバル駅 2006 1 5〉

  
 
  

日本がイギリスのアジア拠点シンガポールを攻略することは、ドイツが日本と同盟を結んだ理由の一つであった。ヨーロッパでイギリス本土侵攻を目前にしていたドイツは、イギリスに対する海上封鎖と補給の遮断を、間接的に日本に求めたのである。

同時に日本にとって米英と戦争を始めるという事は、ハワイ・マレー・フィリピン・香港・グアム等に対して先制攻撃を必要としていた。
 日英同盟の終了により、イギリスはシンガポールの「要塞化」を進めていた。港は主力艦隊の収容を可能とし、海岸は15インチ砲をはじめ多数の要塞砲で防備され、海上からの攻撃も防ぐ戦力を備えていた。
 従って、日本軍は北のマレー半島からしか攻略はできない。マレー半島を縦断しシンガポールまでの距離は実に1000キロ、しかも道は一本でそれ以外は密林に覆われており、超えなければならない河川は250を数えていた。これをイギリスは「東洋のジブラルタル」と称し、「まさか日本軍が、ここから」と油断していたわけである。
 そこを上陸した日本軍6万は一気に南下した。約100両の軽戦車を先頭に、1台の戦車もないイギリス軍の防衛ラインを次々に突破していく。

泥濘の未舗装道路では、トラックによる兵員輸送はあてにできない。そこで活躍したのが自転車である。河も担いでそのまま渡ることができる。「銀輪部隊」と呼ばれた自転車部隊が、シンガポールを目指して南下した。

日本軍が上陸したコタバルの「戦争博物館」には、当時使用された自転車が展示されていた。変速機もない普通の自転車であるが、車体には大きく「MIYATA」と表記されているのが印象的であった。しかしすべての兵隊が、自転車に乗っていたわけではなかった。

「私の部隊には自転車はありませんでした。たとえあったとしても、現地の村で手にいれたものですよ。私達は、殆ど徒歩でジャングルを進んだんです。重い背嚢を背負いジャングルの中で仮眠をとると、山蛭が降りてきます。気がつくと私たちの血を吸って丸々としたのが、何匹もぶら下がっていました」武田義雄。

現在佐賀県鳥栖市にお住まいの武田義雄さんは、当時20歳の初年兵。久留米にあった歩兵第56連隊に入隊し、コタバルに上陸した歩兵第23旅団(佗美支隊)の一員となっていた。

5師団と近衛師団が戦死者1500名を出しながら1000キロを南下しマレー半島の南端ジョホールバルに突入したのは、上陸後わずか55日目の昭和17131日であった。
 私はコタバルから再び夜行列車に乗り込み、700キロを13時間かけて一気に南下した。現在もコタバルからジョホールバルまでは大きな町は見あたらず、未開のジャングルが続いている。
 ジョホール水道は、二つの陸道ですでに対岸のシンガホールと陸続きになっていた。陸道では波さえ立たない、穏やかな水面が広がっていた。それにしても、対岸は近い。

この約1キロのジョホール水道を、約5万の日本軍が渡ったのは、28日深夜である。右翼を第18師団、中央を第5師団、左翼を近衛師団が担当した。

211日に日本軍は、「降伏勧告文」を飛行機から投下した。この211日の「紀元節」に、シンガポールを陥落させることを目標にしていたからである。しかしブキテマ高地では13日、14日と激戦が続いた。

「ブキテマ高地では、激しい撃ち合いになりました。私の分隊長が一発の小銃弾で戦死し、その手首を切断して直ぐに穴を堀り埋めました。
 埋め終わった途端、私の近くで迫撃弾が爆発し、右腕に木刀で殴られたような痛みが走りました。
 意識がもうろうとする中で、誰かが天皇陛下万歳と言ったのが聞こえました。その後ここから切らんと、菌が心臓に入ったらお前は死ぬぞと軍医は言って、赤チン塗った私の右上腕を、真ん中からメスでどんどん切り始めたんです。
 私は手術台に縛り付けられていて麻酔をと訴えても、軍医は使いきったと答えるだけでした。しばらくして、さらにひどい痛みに襲われました。顔にかけられたガーゼの下からのぞくと、小さなハサミで、一本ずつ神経を切っていたんです。私は、声にならん声で叫んでいました。

 あんまり痛かったんで、最後にノコギリで右腕上腕の骨を切ったときは、すっきりして気持ちよく感じました。
 ここで右腕を失った私は兵役免除になり、台湾で鉄道員をしている時に終戦を迎えました」武田義雄

19464月日本に引き揚げ、ヤミ商売をして暮らしている。戦時中は「ブキテマの隻腕勇士」ともてはやされたが、敗戦後は一変した。今でも風邪で熱を出すと右腕がうずき、「あの戦争を忘れるなと、訴えている」気がするという。  

日本軍はこの激戦で弾薬不足に陥り、窮地に陥った。しかし215日、突然英軍の軍使が現れた。
 空襲と砲撃によって水道管が破壊され、シンガポール市内の給水状態が悪化したことがパーシバル司令官を降伏に追い込んだ。
 シンガポールのセントーサ島にあるテーマパークの一つに、「シロソ砦」がある。その一角に、当時の「降伏調印式」と表記された一室がある。                                  
当時の山下司令官とパーシバル司令官の会談の席を、忠実に再現したあるものである。山下がパーシバルに「イエスか?ノーか?」と激しく詰め寄ったという逸話があるが、実際は紳士的な山下は、決してそんな言い方はしなかったようだ。
 シンガポール攻略線での日本軍戦死者は
1713名、武田義雄の所属する第18師団はそのうち938名を占めた。

  
    
   〈マレーシア側からシンガポールに送られる水のパイプ〉           〈セントーサ島にあるテーマパークで 〉 

   
                         〈新旧が混ざり合うシンガポール〉 

                                 BEFORE〈〈     〉〉NEXT                


inserted by FC2 system