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   マレー半島上陸作戦
                           コタバル海岸 
 
         

  
マレーシア                                   歴教協『歴史地理教育』2006年8月号に掲載                                  
   
  
                                                
 
 
        〈季節風で荒れるコタバル海岸〉
    
  
       〈ラタナラジャさんは地元の大学の先生〉

     
  〈タイ最南端スンガイコーロク駅 イスラム過激派のテロ
   が続き、駅は兵隊であふれていた。 2006 1 3〉

  
     〈マレーシアの国境まではオートバイタクシーに乗り
      そこからは歩いて国境を越えた〉


 
    
 〈左端が、世話をしてくれたアリーフィンさん 〉


太平洋戦争が始まったのは、正確には「真珠湾攻撃」からではなかった。それよりも1時間以上も早く、陸軍の部隊が現在のマレーシア北部コタバルの海岸に上陸を開始していた。
 
 私がそのコタバルの「パンダイ・サバッ海岸」に立ったのは、2006年1月4日の事である。コタバルの中心街から10キロあまり、路線バスでも20分の距離であった。

 マレー半島の東岸は11月から2月までは雨期に当たり、雨が降ったり止んだりしている。海は荒れていた。
「1月いっぱいはね、モンスーンが吹き荒れて波が高いんですよ」現地で知り合い私をバイクの荷台に乗せ案内してくれたアリーフィンさん(47歳)が、海岸を指さし語る。
 真珠湾攻撃に先立つ2時間前、日本時間12月8日午前1時30分。第18師団歩兵第23旅団(佗美少将)の約6千名が、この海岸に上陸を敢行した。この日もモンスーンが強く、高い波が押し寄せていた。

待ちかまえていたイギリス軍は、約9千の兵力で海岸一帯に25のトーチカを築いていた。鉄条網が水際に張りめぐらされ、地雷も多数敷設されていた。重装備を担ぎ荒波の中をようやく上陸した兵士達に、機関銃弾が浴びせられた。

「あたりは真っ暗でした。イギリス軍は私達の上陸を知っていたようです。機関銃の弾が飛んできました。ピューンという音なら遠くです。ブスッという音なら近くと分かりました。鉄帽で砂浜に穴を掘って身を伏せましたが、背負っていた背のうには3発当たりました」こう語るのは、淡路山丸に乗って上陸した武田義雄さんである。

激戦となった。死者320名負傷者638名、上陸用舟艇の沈没15という大きな犠牲を出し4時間の激闘の末、海岸線を制圧した上陸部隊はコタバル飛行場に向かった。

この間にも、上陸船団の「淡路山丸」「綾戸山丸」「佐倉丸」がイギリス軍機の攻撃をうけ被弾した。暗闇の中の空襲であった。
「敵機がライトで照らし、輸送船が襲われているのも分かりました」武田義雄

 私は、海岸でイギリス軍が構築したトーチカと、その上陸作戦の目撃者を捜した。多くの人に声をかけたが、なかなか探し当たらない。
 パンダイ・サバッの村の中をキョロキョロしていると、道ばたの水たまりにオオトカゲが現れた。気がついた当初はワニのように見え、大変驚いたが緑色のトカゲであった。少しほっとしたものの、体長一メートルほどの堂々としたものであった。

 「海岸の浸食が激しいのです。数百メートルも浸食されたんですよ。多くの漁師達が家を失って移っていきました」   

私は、持参したトーチカの写真を見せた。
「これらも、海の中に消えてしまいました。当時の事を知っている老人も、もういません」アリーフィンさんは、残念そうに話してくれる。
 どうにか上陸した佗美支隊は、翌9日午前2時に当面の目標だったコタバル飛行場を制圧した。

「この日のお昼頃に、飛行場についたような気がします。私達の到着が早すぎたのか、日本軍機に敵と間違われて機銃掃射されたんですよ」武田義雄。

この作戦は、いわゆる陽動作戦であった。陸軍第25軍(山下奉文中将)の主力を、タイ東南部のシンゴラとパタニに安全に上陸させるために、イギリス軍航空機をコタバルに引きつけておく必要があった。そのための、コタバル上陸作戦であった。幸運にも佗美支隊の作戦は成功した

   シンゴラ・パタニ上陸作戦

シンゴラ、パタニ、コタバルの三カ所が日本軍のマレー作戦の上陸地点である。シンゴラとパタニはタイの領土にあり、コタバルは当時イギリスの植民地であったマレー領である。
 独立国として中立を表明していたタイ国に、日本は簡単に軍隊を入れるわけにはいかない。「軍隊の一時的通過」であっても領土侵犯にかわりはなく、当時のピブン首相の返答によってはタイとの間に武力衝突が起こる可能性もあった。

 12月8日12時頃、ようやく軍隊通過協定をタイ国は締結する。 

「私は現在70歳ですから、当時は10歳にも満たない子供でした。パタニに上陸した日本軍の兵達が、当時私の住んでいた国境に近いベトンの町を通ったのです」
 そう語るのは、地元の大学で教鞭をとるヘッド・ラタナジャラナさんである。

私はコタバルに向かうために、タイの首都バンコクからマレーシアとの国境の町スンガイコーロク行き(約1200キロ)の長距離列車に乗っていた。列車の中で日本人の私に声をかけてきたのが、ラタナジャラナさんである。
「何せ私は小さな子供だったのですが、彼らはピースフルでしたよ。それ以上のことは覚えていませんが、パタニでは戦闘があったんです」

こうして日本軍は一部で小競り合いがあったものの、主力の第5師団と第18師団は平和裡に進駐が進み、サイゴンからは近衛師団がタイ領を通過しマレー半島を南下していく。


         
                                〈アリーフィンさんと仲間たち、家具職人という 〉


   
            〈オオトカゲも歓迎してくれた〉                〈英軍のトーチカ コタバル市の博物館で 〉 

       
   〈元気な子供たち コタバル海岸から市内に戻るバスの中で〉    〈右端は、弘前大学に留学していたという数学の先生〉

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