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アジアのジャンヌダルク柳寛順
                     ユ・ガンスン
 
  大韓民国                                                                                
     
    
                   (柳寛順烈士記念祠堂にある像 と 近くにある生家  2007 8 15〉
 
 
              

 
        
〈玄関口「天安」の中心街 地方都市だ〉 

 
     (柳寛順烈士記念祠堂入り口 2007 8 15〉
 

寛順(ユ・ガンスン 1902年11月17日-1920年10月12日)は、日本統治時代のの朝鮮半島で独立運動をした女性活動家。1962年韓国政府がその功績を認めて、独立烈士と呼ばれるようになった。

天安市の生家近くには柳寛順烈士記念祠堂が設けられ、ソウルの西大門刑務所も歴史館として一般公開されている。「アジアのジャンヌだるく」「韓国のジャンヌダルク」と呼ばれることも多い。

1902年忠清民身道天安郡(現・天安市)龍頭里で生まれた。父は柳重権、母は李将悌で、5人兄弟の2番目の娘である。幼少時代は縄跳びが上手で有名だった。父は開明的な人物であったが、私立学校を設立したため、多額の借金を抱える貧しい家庭であった。

1916年キリスト教メソジスト派の米国人女性宣教師の援助によってソウル(京城)の梨花学堂に給費生として入学した。

1919年2月21日の午後高宗が崩御し、高宗は日本人によって毒殺されたという噂が流れ、独立運動を起こそうとする動きが強まった、寛順と友人たちもこの運動に加わった。

 1919年、3・1独立運動が勃発し、朝鮮総督婦から各学校に対して休校命令が下され、梨花学堂も休校となった。寛順は故郷の天安に帰り、教会関係者などと万歳デモを計画した。そして、周辺に協力を求めるため、数日間歩き回った。

4月1日、柳寛順は地元並川ピョンチョンの市場に集まった群集に独立運動の演説を行い、日本憲兵隊の集会中止命令を無視して最後にはデモ行進に移った。日本憲兵隊はデモ鎮圧のために女性や老人などにも容赦なく発砲し、寛順の父母も流れ弾に当たって死亡する。

柳寛順は逮捕され、後にソウル西大門刑務所に移送、1審で暴力デモを主導した罪で懲役3年が宣告されたが、控訴審で寛順は裁判長と言い争いになり、椅子を裁判長に投げつけるという事件を起した。この事件によって法廷冒とく罪が適用され4年の刑期が追加求刑されたが、宣告された刑期は3年であった。  
 柳寛順は
上告せず、これが刑量になったが、減刑があり最終刑量は16ヶ月となった。しかし、その後も大規模獄中デモを主導するなど抵抗を続けた。10月12日凄まじい拷問がもとで西大門刑務所内で「大韓独立万歳」と叫び、病死した。17歳の若さであった。

 柳寛順ユグァンスンの故郷はソウルの南、「天安チョナン」からタクシーで東に40分ぐらい行ったところにある。「柳寛順烈士記念祠堂」が立てられている。
 長い並木道があり、その奥に柳寛順遺跡地がある。背後には烽火を上げた「梅峯山」。入口にお下げ髪の手に太極旗を翻した銅像。監獄証などが収められた記念館。裏の梅峯山の途中に功績を記した数々の石碑など。山頂に烽火塔。山頂からは独立記念館が見える。
 そのまま山を縦走し向こう側に降りれば、生誕地。復元された生家と今も使われててる「梅峯教会」。十数軒のこじんまりした集落である。

  
  
           (柳寛順烈士記念祠堂の展示〉                     (デモ行進した並川の通り〉  

   
                                (デモはたちまち鎮圧されてしまった〉

    

   
                             (ソウル西大門刑務所内部 と 展示 1994 8〉

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