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餓死200万人と日本軍Ⅱ
サクラの花幼稚園
ベトナム ハノイ 十勝毎日新聞にて連載 2012 1
〈立派な「サクラの花幼稚園」の正門と園児たち 2012 1 9 〉
〈国道5号線を東に進むと、北にロンビエン橋が見える)
〈国道沿いにいったんバスを降り北に一キロほど進む〉
〈まずはあいさつのために人民委員会へ〉
〈コビ村のサクラの花幼稚園〉
実は飢餓の村コビでは、厳しい真実を突き付けられただけではなかった。私はここで、意外な朗報を耳にした。
「この村の幼稚園は、サクラの花幼稚園と言います。私の娘も通っています。戦時中この村に駐屯していた日本の元兵隊さんたち174人が、お金を出して建ててくれました」と、通訳のインさん。そして彼女は私をその幼稚園、そして隣接する小学校に案内してくれた。小学校のハン校長先生にお会いしたが、彼女は建設当時(1998年)の幼稚園長であった。そして実に2000年にはその元日本兵たちの招きで、当時の石川県寺井町に親善訪問までしていることを知った。私は感銘を受けた。心ある元兵士たちが、いたのである。
中心になった元兵士というのは、「クロカワさん、オオサワさんです」と、ハン校長。戦時中の飢餓に心を痛めていた日本兵たちが、確かにいたのである。私はその日の深夜便で帰国し、早速その二人の元日本兵と連絡を取った。
オオサワさんは、長野県にお住まいの大沢英信さん(88歳)。クロカワさんは、石川県にお住まいの黒川吉衛さん(88歳)であった。
黒川さんは、その著書に書いている。
「確かに見た。この目で見た。多くの人々が死んでいくのを。鼻の穴、目頭や目尻に覆いかぶさるように黒く群がる蠅を追い払う気力も失せた人たちが、座り込んだその場所で死んでいくのを」。
また黒川さんの独自の調査では、当時の村人は約1500名そして餓死者は約300名との事であった。村人の2割が、犠牲になったことになる。当時の様子を大沢さんに伺った。
「私たちの部隊は、第21師団(金沢)山砲兵51連隊第三大隊です。黒川は同じ初年兵の戦友です」。当時大沢さんは、21歳の陸軍一等兵であった。「私たちがコビの村に入ったのは、昭和20年の1月です。そこを中心に2年間ベトナムで過ごしました。コビの村は、海抜1メートルです。土を掘るとすぐに海水が出てくるので、真水を手に入れることに苦労しました。2月は特に寒く、朝は7度ほどまで気温が下がるのですよ。
昭和20年3月9日のクーデターの時は、ハノイの南80㌔にあったフランス軍のトン飛行場を無血占領したのです。その後そこから山中に逃亡したフランス軍を追って、掃討作戦を続けていました。米軍が空から援助物資を次々と落下傘を使って投下しますから、フランス軍はなかなか出てきません。水の缶詰まで、投下していました。私たちは拾ったパラシュートの生地で、シャツなどを作りましたよ。その後は、上陸してくるだろう米軍を待ち構えていましたが、終戦になりました。
現地では確かにコメの調達などもあったようですし、餓死者も見ました。これが人間かと思いましたよ。その一方で実は私たちは日本に帰還する翌年まで、ずっと米を食べていたんです」。日本軍は戦争の長期に備えて、実に2年分の食料を備蓄していた。何れも現地で、強制的に調達したものである。お二人は、一兵卒であった当時はこの事態をよく飲み込めず、飢餓の事実を知ったのは戦後50年を経てからであった。
私が訪問した「サクラの花幼稚園」では、ちょうど園児たちが昼寝の時間に入ろうとしていた。数枚の大人用毛布に大勢の子供たちが潜り込んで、目を閉じて始めていた。その部屋の上部には、97年と98年に黒川さんたちが訪問した時の写真が数多く掲げられていた。
そしてその写真の真下で眠りにつこうとしているあどけない子供たちの寝顔を見ると、写真が子供たちのお守りのように見えてきた。「黒川さんたちがこの子供たちを、この先守ってくれるに違いない」と、私は思った。
〈サクラの花幼稚園とお守りのように掲げられている写真 2012 1 9〉
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