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    餓死200万人と日本軍Ⅰ
                        ハノイ市ジャラム県コビ村


  
ベトナム ハノイ                                         十勝毎日新聞にて連載 2012 1                     
   
    
              〈静かに語るニェーさん 83才。          コビ村の中心通り   2012 1 9 〉
   
 
 
         〈語るディンさん 自宅で〉

  
       

 
  
  〈当時の惨状を記録した写真
     早乙女勝元「ベトナム 200万人飢餓の記録」より〉


  
   〈コビ村の人民委員会委員長さんを訪問しご挨拶〉

 
       〈当時を語るニェーさんとインさん〉


 餓死者200万人。これは1945年日本軍占領時代に、ベトナム北部で起こった出来事である。
 1940
年フランスがナチスドイツに降伏すると日本は火事場泥棒のように、現在のベトナム北部に軍を送った。これを「仏印進駐」というが、これによりそれまで植民地の支配者として残っていたフランス軍と日本軍が二重支配をとる形になった。東京大空襲のあった1945310日には、日本軍はベトナム各地で一斉に軍事行動を開始。たちまちフランス軍を武装解除し、直接支配を行うようになる。

日本軍は占領下の5年間、米・とうもろこし・大豆などの食料からゴム・石炭などの資源を、収奪してきた。1945年の飢餓は、このような軍事的搾取の中で起きたいわば戦争被害である。この年は天候不順の凶作と洪水が重なったが、日本軍の強制的な食料調達は容赦がなかった。

ジュート()の強制栽培による耕地面積の縮小と米どころ南部からの米輸送の途絶のなかで、農民が餓死を強いられたのである。その数は合計200万人と言われている。

私は戦後67年という年月と72歳というこの国の平均寿命を考えると、体験者に会うことは諦めていた。ところが通訳のインさんが「私の村で話が聞けますよ」と、言い出した。色めきたった私はハノイの中心から東に12キロ、ハノイ市ジェラム県コビ村に路線バスとタクシーを乗り継ぎ出かけることとなった。
 社会主義国ベトナムでは、自由な取材はできない。まずは地区の行政機関(人民委員会)に丁重な挨拶をしてようやくインタビューに取り掛かれるわけである。

その後私たちはディンさん(1935年生76)の自宅で、ニェーさん(1928年生83)のお二人から当時の話を聞くことができた。
1943年この村に日本軍がやってきました。日本軍には馬しかありませんが、銃を持っています。麻袋を作るために、麻の栽培が強制されました。私たちは、トウモロコシの刈取りが終わるまで待ってくれと言いました。フランスも陰からベトナム共産党(ベトミン)の指導者を、支援してくれました。リーダーたちはハノイの日本軍の司令部に行き、嘆願しましたがだめでした。30ヘクタールのトウモロコシ畑が、麻畑に変えられました。麻が実ると5キロ離れた鉄道駅のあるズンサーの村まで、水牛をつかって運びました。安い給料で日本軍に働かされたわけです。逃亡しないように、我々を日本兵が見張っていました。この強制労働による逃亡者も、当時は増えていたのです。
 1944年から45年にかけて、餓死者が出始めました。米はもともとなく残っていたトウモロコシを食べつくすと、普段豚のえさにしていたバナナの木の根などを食べるようになりました。一家全滅の家もありました。惨状を知った村の金持ちが米粥をつくり、村人に提供し多くの村人が列を作りました。でも焼け石に水でした。泥棒やひったくりも増えてしまいました。塩もないのです」。

いったいどれくらいの村人が犠牲になったのだろうか。お二人は慎重な口ぶりで、「村人は2千人くらいでしたが、毎日45人くらいずつ亡くなって行きました」。ディンさんの祖母も、犠牲者の一人であった。

日本軍が去った後も、悲劇は続いた。フランスが支配者として戻ってきた。たちまち独立運動は弾圧された。「1947年この村にフランス軍が来て、村人を殺したのです。私も1947年から51年まで,三度刑務所に入れられましたよ」と、ディンさん。
 194728日、村人103名がフランス軍により殺害された話に及ぶと。通訳のインさんが突然語りだした。「私の祖父も、今の夫の祖父もその時殺されました」。
 インさんの祖父ヴィバンディさんは当時わずか16(この国では結婚が早い)、「死体は池に投げ込まれ、そのあと引き上げで埋葬しました」。そしてインさんの夫の祖父レイバンズさんは、「ハノイで処刑され、そのまま大きな川(紅河)に捨てられたらしいです」。
 死体が投げ込まれていたという池は、村の中央にあった。現在はきれいに整理され、当時の惨状を思い出すことは難しい。103名を埋葬したという穴も、すぐ近くに残されていた。日本よりも凄惨な、フランス植民地政策の本質を垣間見る話である。

ハノイ市内への帰り道、路線バスの中でインさんは「200万人の餓死のことは、ベトナム人全員が知っています。日本の責任であることは、はっきりしています。フランスは責任を明確にしていますが、日本ははっきりしていません」。彼女の語気は強かった。確かにたかが麻袋のために人命を顧みなかった当時の軍部のやり方はあまりにも非道であり、戦後の日本政府もご承知の通りである。

「戦争のことは、覚えていますか」、私はインさんに尋ねた。「私は71年生まれですから、アメリカとの戦争は覚えていませんよ。そうだ、中国との戦争(79年中越戦争)は覚えているわ。村が大騒ぎになって、若者がどんどん戦場に送られていったんですよ。私の親類の青年が、5人も行きましたよ」。私は言葉を失った。フランス・日本・アメリカ・中国。わずか半世紀の間にこれだけの国を敵国としなければならなかった国が、他にあるだろうか。


              
          〈コビ村の中央には、インさんの祖父などが投げ込まれたという池がある 2012 1 9 

   
                     
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