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   北爆の象徴「ロンビエン橋」
                               

  
ベトナム ハノイ                                   十勝毎日新聞にて連載 2012 1
   
  
                  〈ロンビエン橋は堂々と現在も誇り高く君臨していた。 2012 1 7 午後5時〉
   
 
 
        〈歩道も車道も狭いロンビエン橋〉

  
           
〈なんと鉄道線路も備えていた〉

 
            
〈北爆を繰り返したB52〉

 
           
〈かつてのロンビエン橋〉 

 
   〈堰を切ったように話すブーマーンハーンさん57  

 「ロンビエン橋」を、どうしても見たかった。ベトナムの首都ハノイにある1700㍍のこの橋は、植民地時代の1902年にフランスが建設した老橋である。大河紅河に架かるこの橋をベトナム戦争時、米軍は最大の攻撃目標とした。たちまち破壊されるが、ハノイ市民は架橋をつくり粘り強く戦い抜いた。超大国アメリカを駆逐したシンボルとして、この橋は今もハノイ市民の誇りである。

 そのベトナムの首都ハノイに入ったのは、15日の夕刻である。ラオスの首都ビエンチャンから北東に約500㌔。わずか45分のフライトだが、国境の分水嶺からベトナム側には低く厚い雲が張りつめているのが上空からもよくわかる。私は1月のハノイは太陽を見ない陰鬱な日が続くということを知らず、夏の装いでハノイ空港に降り立ってしまった。気温はわずか12度。ハノイ市民は真冬の服装である。前日は気温8度で、休校になった学校もあったという。
 しかも通勤時間と重なり、鉄道や地下鉄を持たない市内は大渋滞。バイクの数が凄まじい。空港から
30キロの市内まで2時間を要し、ミニバスタクシーを降りた後も歩道をバイクが走り回る有様で、歩くこともままならない。86年からの自由経済政策「ドイモイ」から始まった経済成長の結果である。

 この曇天の中にロンビエン橋は、しっかりと君臨していた。近くに宿を取り、私は橋を歩いた。歩道も車道もとても狭い。歩道は人がすれ違うのがやっとで、車道は車が通れずバイクだけが洪水になって走っていく。意外なことに真ん中に線路があって、時々列車が通る。

「ロンビエン橋は、米軍の空爆で真ん中が折れてしまったんだが簡易の橋を作ったんだ。米軍機が来ると橋を畳んで隠したんだよ」。そう語るのは、この橋の近所に暮らすブーマーンハーンさん57才である。
 私は日本語通訳のインさんを通じ、当時の様子を伺った。彼は堰を切ったように話しだした。
「もっとも空襲が激しかった1972年は、18歳でここにいたよ。住民の殆どは郊外に疎開したんだけどね、自分はここで兵士になったんだ。バクマイ病院に送られて、そこにあった飛行場と病院の警備をしたよ。米軍機に対空砲火をしたり運転手もしたなあ。そりゃあ撃ち落とすのは難しいよ。夜も昼もくるんだ。レーダーで見つけられないんだ。ハノイの40キロ先に哨戒所があるんだが、発見して連絡が届く前にハノイの町に到達しているのさ。B52F40だね。12月の空襲がひどかった。特にカムティエン通りは死体だらけになったんだ。電気と水には困ったなあ。このあたりは煉瓦の廃墟だったよ。
 学校の先生をしていた上の姉が防空壕に入れず、爆弾の破片が100個以上も体に突き刺さってね、今も苦しんでいるよ。ソ連の医者に診てもらって助かったんだ。そういえばずっと防空壕に暮らしていたなあ。南にいた親類は父の弟なんだけど、南側の将軍になっていたんで戦後はハノイの刑務所に入れられたよ。戦争は戦争で、今はアメリカのことを憎んだりしていないよ」。

私はその死体の山ができた、「カムティエン通り」を訪問した。車が激しく行き交い、新市街のはじに位置する。現在ここに死亡した幼子を抱いて立つ母親の像が、慰霊碑として立っている。1972年12月のいわゆる「クリスマス爆撃」での死者を追悼するものである。爆撃でこの通りは壊滅し、死者は500名以上と言われている。この作戦では、150機のB-52による夜間絨毯爆撃でハノイやハイフォンが焼け野原になった。私はここでも手を合わせた。

ほぼ4年にわたる米軍の空爆は月平均2500回、100万トンの爆弾を投下している。600の学校、200の病院、500の教会と寺院が破壊されたという。爆撃は無差別というよりも、むしろ人口密集地帯を狙い執拗に繰りかえされた。4、5月は収穫期の農作物をねらって焼きつくし、7、8月の洪水期は川の堤防が狙われた。米軍はまず堤防を破壊し、修復のために人が集まったところを再び攻撃する方法をとったという。

私は通りの茶屋でブーマーンハーンさんの話を伺っていると、知り合いのウェンダンズーさん66才が現われた。すかさず彼にも戦争体験を伺った。1968年に軍人になったよ。中部戦線で主に偵察活動をしていたね。11名いた同じ部隊のうち9名が死んだよ。アメリカの飛行機が一番怖かったなあ。F105(サンダーチーフ戦闘機)にやられたんだ。当時はね、米軍はホーチミンルートを目標に枯葉剤を大量にまいていたよ。僕らはうまく隠れていたので大丈夫だったけどね。ここに暮らしていた家族は疎開していたよ。兄が一人1970年に戦死したね」。
 この二人に私は、「一番怖かったものは何ですか」と尋ねた。二人は口を揃えた「国のために戦っていたから何も怖いものはないよ」。見事な社会主義的な回答ではあるが、私は日本とは違い大国アメリカを打ちのめした戦勝国の誇りを感じた。
 ブーマーンハーンさんは別れ際、「そうそうその後も戦争に行ったなあ。1979年に中国とも戦ったよ」。1979年の中越戦争である。アメリカと中国という二大国を退けたベトナム人の不屈の精神力に、私は脱帽した。
 
    


     
      〈語るウェンダンズーさん66 2012 1 9〉        〈ウェンダンズーさんたちを襲ったF104戦闘機 

     
     〈茶屋の主人タムスーハンさん65才は疎開していた〉           〈現在のカムティエン通り 2012 1 6〉

      
   カムティエン通りにある慰霊碑「ダイトゥオンニエム」1972 12 26 の日付が胸を撃つ  2012 1 6
 
                     
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