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  ラオス内戦と「モンの悲劇」
                               

  
ラオス バンビエン ビエンチャン                                十勝毎日新聞にて連載 2012 1                
   
 
                    〈バンビエンは石灰岩の岩山と渓流が美しい 2012 1 3)〉
   
 
 
        〈町の東側にある広場が滑走路〉

  
       
〈河の河岸では欧米旅行者が乱ちき騒ぎ〉

  
        
〈滑走路の脇には屋台が並んでいる〉

 
     
〈滑走路では結婚披露宴の準備がされていた〉 

 
   〈滑走路の脇にあるバスターミナルも欧米バックパッカー
     に占領されていた 2012 1 4〉
  


 ラオスの首都ビエンチャンから北の内陸部に
180㌔、バンビエンという小さな町がある。未整備の悪路を耐えること4時間。ようやく美しい渓谷を備え、現在は欧米のバックパッカーで溢れるこの国唯一のリゾート地に辿り着く。

 渓谷をボートと進むと、河岸でヒッピー風の欧米人たちが水着でドンチャン騒ぎをしている。アルコールはもちろん麻薬もあるらしい。まるで60年代にタイムスリップしたような光景がいくつも繰り広げられていた。

 私がここを訪問したのは、この国の内戦の痕跡を示すものが残されているからである。それは、米軍が内戦時代に建設使用していた滑走路である。米軍は共産主義勢力打倒と北ベトナムがラオス領の山岳地帯に補給路としていた「ホーチミンルート」を破壊するために各地に飛行場を建設したが、ここもその一つである。
 舗装が剥がれた滑走路は、長さ約千メートルほど。決して長くはないが町の中心を分断する位置にあり、住民が自由に往来しているもののその不自然さもあり存在感は大きい。 
 米軍は連日ここから軍用機を発進させた。ホー・チミンルート沿いに300万トンもの爆弾を投下し、その内の一割が不発弾となり現在も住民の生活を脅かしているという。当時この滑走路の脇に米兵相手の店が立ち並び、現在のリゾート地の原型になった。
 現在は滑走路の脇に、素朴な村人の露店が並んでいる。そこを上半身裸の欧米旅行者が、ビール片手に通り過ぎていく。まるで当時の米兵のようだ。ぼんやり眺めていると、150人分ほどのテーブルが並べられ何やらパーテイの準備が始まっている。「7時から結婚披露宴があるんだよ。あんたもきなよ」と若者が、笑いながら声をかけてくれた。

ラオス内戦を正確に語ることは難しい。1953年のフランス植民地支配終了から75年までの長期にわたり、基本的には社会主義国家建設を目指す左派パテート・ラーオとかつてのラオス王国政府による内戦であるが、そこに更に中立派が入り乱れ戦闘やクーデターが繰り返されてきた。
 同時に隣国のベトナム戦争の影響を受け、単なる政治闘争を越え冷戦中の米ソから支援を受けた代理戦争に発展している。直接戦闘に関わった国だけで北ベトナム、アメリカ、タイ、南ベトナムの四か国に上り複雑で理解しにくい状況が生まれた。ラオス国民は、その中で翻弄され続けてきた。犠牲者の数も定かではない。
 しかも世界の関心は激しさを増していたベトナム戦争に向けられたため、ラオスは「隠れた戦場」と言われその実情知ることは現在もなお難しい。
 ラオスもまた多民族国家である。現在も総人口約560万のうち多数派のラーオ族が人口の六割を占めるが、他に50以上の少数民族がおり複雑なモザイク国家をなしている。そこに目を付けたのが当時のアメリカであった。アメリカは少数民族の「モン」族を巧みに懐柔し、彼らを共産主義勢力打破のための尖兵として使用した。「モン狩り」と呼ばれる兵隊狩りで村から青年たちの姿が消え、「モンマキ」とよばれる特殊部隊まで結成された。そして20万人とも言われる夥しい戦死者を出している。ベトナム戦争での米軍の死者5万人と比較すると、その異常さが理解できる。
 そして1975年内戦が終結し、現在の社会主義政権ラオス人民民主共和国が成立した。内戦終了後も悲劇は続いた。米側につき敗戦側となった彼らは、討伐の対象となり多くの犠牲者を生んだ。隣国タイに難民となり逃れた約30万人のうち10万人が、その後アメリカに渡ったと言う。これが有名な「モンの悲劇」である。

 
私は偶然にも、そのモン族の親子にお会いすることができた。首都ビエンチャンの中心にある内戦の犠牲者を追悼する巨大な慰霊塔「パトゥーサイ」でのことがある。ここで私は声をかけられ、会話が進むうちに「子供が四人います。私たちはモンですよ」という言葉にどきりとした。日本人の顔立ちそっくりの彼らの瞳になにか悲しいものを感じた私は、多くのことを尋ねることができなかった。



 
    
   〈付近には多くの洞窟がある。タムチャン洞窟で。 2012 1 4〉 


   
      〈内戦の慰霊塔「パトゥーサイ」 2012 1 2〉             〈最上階から南側にビエンチャン市街を見る〉 

              
                        〈パトゥーサイでであったモン族の親子と〉
                     
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