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地雷と大量虐殺のカンボジア
カンボジア シェムリアップ 十勝毎日新聞にて連載 2012 1
〈コムさんが左腕をさしだす 2011 12 30〉 〈シェムリアップにあるワットメイ寺院 キリングフィールドの一つ〉
〈トゥクトゥクに乗り戦争博物館の入り口へ〉
〈展示されている地雷を手にしてみる〉
〈展示されている地雷を踏んでみる〉
〈コムさんが事故にあった故郷の位置を指さす〉
「私の手を、よく見てください」と、彼は私に左腕を突き出した。左肘の上の部分から下がなくなっている。こう話し始めたのは、カンボジア北部の世界遺産アンコールワットの玄関口シェムリアップにある「戦争博物館」の職員ミーソン・コムさん(30歳)である。
「1995年14歳の時にこの腕を失いました。カンボジアとタイの国境近くで農業をして暮らしていましたが、周辺には地雷が数多く埋められたままでした。父は地雷を拾ってきては火薬を抜き取り、金属部分を売って生活の足しにしていました。それがある日、爆発したのです。家の中の出来事で、家族4名が死亡しました。両親と7歳10歳の二人の妹です。私はたまたま離れていたところにいたので、腕を失いましたが生き残ったのです」。
60年代から30年にも及ぶ内戦時代に埋められた「地雷」は、約1000万発。「ジャングルにはまだ残っていますが、この辺りは大丈夫ですよ」と笑いながらコムさん。単純に地雷の数だけではカンボジアを上回る国はあるが、国土面積を考えるとカンボジアは、地雷埋設密度世界一という。この「戦争博物館」には、当時内戦で使用された兵器が並んでいる。夥しい種類と数の地雷とともに、戦車や大砲・トラックまである。ミサイルを搭載したトラックの運転席からコムさんは白い塊を拾い出した。「運転手の骨でしょうね。ひどいものです。カンボジア政府は、私たちに何もしてくれませんよ。その点日本は素晴らしい。小渕敬三(元首相)さんは、この辺りの地雷を全部撤去してくれましたよ。有森裕子さんは、毎年ここでチャリティマラソンをしてくれています。私のような地雷被害者は、現在も100万人います。現在のフンセン首相(左目義眼)もそうです、顔に相当数の破片が今もが突き刺さったままですよ」。この国の内戦の、爪痕は今も大きい。
東西冷戦下のカンボジア内戦でもう一つ世界を震撼させたのは、「ポルポト派による大量虐殺」である。各地に「キリングフィールド」と名付けられた虐殺現場が残っているが、ここシェムリアップにもある。
1975年4月、内戦が終結した。同月カンボジア同様に解放戦線側の勝利で「ベトナム戦争」と「ラオス内戦」も終結した。長年にわたるインドシナ紛争はここで終息し、3カ国がともに社会主義国家となった。カンボジアは「クメール・ルージュ」を率いるポルポトが政権を担うことになった。そして、この日からカンボジア国民にとって「内戦」以上の地獄が始まった。
中ソの支援によるポルポト政権は極端な社会主義政策を取り、都市からすべての住民を追い出し自給自足の生活を強要した。更に知識人を中心に住民を虐殺していった。人口1千万人のうちその後2年間に、200万から300万人の市民が犠牲になったと言われている。直接の殺害は半分程度、残りの半分は食糧不足などによるという。六年前私はここで利用したバイクタクシーの運転手ポーさんに、尋ねたことを思い出した。
「あなたのご家族で、犠牲になられた方はいらっしゃいますか?」彼は答えた。「私の父と祖父が殺されています。私は現在30歳です。1975年つまり30年前、私がまだ母のお腹に入っているときの出来事です。2人とも銃ではなく、ポルポト派に刀で斬り殺されたのです」。この訪問した時はひっそり閑散としていたが、現在はひっきりなしに観光バスがやってきてすっかり観光地になっていた。ここにポルポト時代に刑務所があり、数千人が処刑されたと言われている。現在は供養のためにワットメイ寺院になっている。寺の境内にガラス張りの慰霊塔が建ち、その中に人骨が山積みになっているのが見える。頭蓋骨が密集し、こちらを向いている。こちらを睨みつけているようにも、助けを呼ぶようにも見える。誰もがぎょっとする光景だが、こうしてより多くの人々の目に触れられることが供養になっていることであろう。いつも穏やかで優しいカンボジアの人々全員に、悲しい歴史がある。なぜだろうか。その優しさ素朴さ従順さゆえに権力者に翻弄されるのであろうか。私もここで静かに手を合わせた。
〈運転席から人骨を取りだし、ちょっとびっくり〉 〈当時の兵器が並ぶ「戦争博物館」は完全に屋外施設〉
〈当時の兵たち〉 〈ワットメイ寺院の慰霊塔には頭蓋骨が並ぶ〉
〈ワットメイ寺院は多くの観光客が訪れていた 2011 12 30〉
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