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  バロン西と軍馬補充部十勝支部


  
                                                                               
     

  
            (西竹一と赴任に合わせて特別に建造された宿舎。70年を経てもしっかりと残っている) 
    
 
      
             〈当時の西竹一〉

  

  〈西竹一の宿舎前で語る佐藤友二さん。ちなみに左側に
   見える建物が佐藤さんのお宅   2006 11 15〉


      
        〈当時の佐藤友二さん〉 

 

  
       〈友二さんはいつも歓迎してくれた〉

  
   〈友二さんが製作した「放牧地面積表」昭和11年
       の年号が素晴らしい) 

 
           〈放牧地図も製作されている)

  
 
         〈当時の軍馬補充部)  


 バロン西は、本名を西竹一(たけいち)という。男爵(バロン)の家に生まれ、昭和7年のロサンゼルス五輪で馬術競技で金メダルに輝いた。そして軍人として、満州から転じ硫黄島で戦死している。
「五輪の英雄バロン西、出てきなさい。君を失うのは惜しい」。硫黄島では米軍が名指しで投降を呼びかけたが、西は抗戦を貫いた。そんな逸話が残る。
 2006
クリント・イーストウッド監督製作のハリウッド映画「硫黄島からの手紙」にも、西竹一が登場している。
 西竹一は外務大臣などを歴任し駐清公使時代には義和団事件の処理に当たった西徳二郎男爵の三男として、1902年東京に生まれている。
 
父徳二郎56歳の時に誕生し、1912年に死亡した父の跡を継ぎわずか10歳で男爵となった。13歳までに兄父母をすべて亡くし、22歳で結婚。昭和2年に長男泰徳さんが誕生している。 

府立一中(現日比谷高校)を経て、大正5年広島陸軍幼年学校に入学。その後陸軍士官学校、習志野の陸軍騎兵学校を卒業し、愛馬ウラヌスに出会う。

1930(昭和5)年 ヨーロッパ各地の馬術競技を転戦しイタリア人から500ドル(2000円)でアングロノーマン種の雄馬「ウラヌス」号を購入した。ウラヌス号は、陸軍から予算が下りず自費での購入したものであった。そしてウラヌス号と共にヨーロッパ各地の馬術大会に参加し、数々の好成績を残していった。

陸軍中尉時代の1932年の路ソン是留守オリンピックでは、ウラヌス号を駆って馬術大障害飛越競技に優勝し、金メダルを獲得している。日本が馬術競技でメダルを獲得した唯一の記録である。当時の馬術・大障碍は、閉会式の直前に行われる大会の華であった。

五輪史上最も難しいコースで、11人中10番目に登場した西は、愛馬ウラヌス号とまさに人馬一体。減点8の優美な飛越で、米国のチェンバレン少佐(減点12)を抜き、優勝した。会場はスタンディングオベーションの嵐がおこり、「バロン(男爵)・ニシ!」のコールがこだました。

この時のインタビューに「我々(自分とウラヌス号)は勝った」と応じ、当時の満州事変による日本人への敵愾心を越えて世界の人々を感動させた。彼はバロン西(Baron男爵)と呼ばれ欧米、とりわけ社交界で人気を集めた。
 社交性に富む西は、米国の日本人に対するイメージを一変させたといわれ、米国の著名な映画俳優達との友好も話題となった。

このロサンゼルスオリンピックでは、南部忠平の三段跳びと水泳で日本が活躍している。日本は昭和15年の東京オリンピック誘致に向けて、大選手団を送っていた。大障碍飛び越し競技はプリデナシオン(優勝国賞典競技)と名付けられ、この競技を最後にとしてオリンピックの幕を閉じるのが慣例となっていた。
 日本、アメリカ、スウェーデン、メキシコの四カ国12名がエントリーしていたが、実際には日本人一名欠場し11名参加。6名失格完走は5名のみであった。

西は1936年のベルリンオリンピックにも参加したが、競技中落馬している。ウラヌスは体高1メートル81センチの巨大馬で、このベルリンオリンピックにも出場している。同じ馬で二回連続出場は例がないという。参加国は18、選手は54名に増加している。西は20位であった。これは主催者のドイツが、自国に有利に障害物を設置したためと言われている。

その後西は、本業の軍務にもどるが、当時は騎兵連隊が削減され代わって戦車連隊が設置されていた時期であり、西も戦車連隊長となった。日本も「馬」の時代から「戦車」の時代へと兵器の近代化を急いだわけである。

西は車を趣味にし、性格も鷹揚・天真爛漫サッパリしていたと交流のあった人たちは証言する。それが災いしてか陸軍内で反感を買い、騎兵第一連隊から習志野16連隊、十勝(陸軍軍馬補充部十勝支部)、満州・牡丹江戦車第26連隊長と配属になり、最後には硫黄島に移動させられたことになる。

つまり、北海道送りはいわば「左遷」であった。こうして1940年(同15年)4月から翌年8月まで、現在の北海道本別町にある軍馬補充部十勝支部に支部長補佐として在職していた。当時の階級は少佐。破天荒ではっきりとした性格は、陸軍将校でありながら丸刈りにしていないことなどにも表れている。

その後戦車第26連隊長として北満州の防衛に就いたが、194年硫黄島へ赴任する。その行路父島沖で米潜水艦の雷撃を受け、戦車共々輸送船は沈没した。

硫黄島の戦いでは、1945年3月17日に音信を絶ち、3月22日米軍の火炎放射器で片目を失いながらも、部下らと共に最期の突撃をして戦死したとされているが真相は不明である。その1週間後、ウラヌスも東京で処分されたとされている。
 なお、死ぬまで離さなかったウラヌスのたてがみが、平成2年米国で発見され、現在は北海道本別町の歴史民俗博物館に展示されている。



 佐藤友二さん  

陸軍軍馬補充部十勝支部時代の西竹一を、知る方がいらっしゃる。佐藤友二さんである。佐藤さんは岩手県香金ヶ崎町に大正2(1913)9月に生まれている。昭和1110月に身内の紹介で、北海道本別町にやってきた。

「当時軍馬補充部には、約1000頭の軍馬が常時飼育されていました。広大な敷地を、鉄線で囲んだ区画に分けて飼育していました。2歳馬を道内で購入し、5歳まで育てて戦地に送り出すのです。
 5歳の秋に、仙美里駅から貨車で輸送しました。私も馬を連れて5回大陸に渡りました。半月から一ヶ月程度の期間です。満州国の奉天・新京
(長春)・白城水・北京などを周りましたよ。広島から大連行きの輸送船に乗るんです。一両の貨車に6頭ずつ、いつも計100頭ほど輸送しました。

 冬も放牧していました。馬は笹を食べるんです。合計117名が働いていました。調教師40名軍馬手が77名です。そのうちここ拓農には、調教師21名軍馬手38名です。私は、当初牧手後に調教師や軍馬手をしました」

 西竹一の思い出はどうだろう。
「私のすぐ近くに住んでいました。冬は除雪をしてあげました。馬の買い上げをするために一緒に道内を周ったこともあります。
 巻き尺で馬のサイズを測りましたね。ある日基準値以下の馬だったのですが、お国の為に使いたいとおおめに見て買い取ったことがありました。宿泊先の旅館では、私たち部下にご馳走などをしてくれましたよ」。

西 徳二郎 

1912(明治45)年没 華族 男爵 日清戦争開戦時、駐ロシア公使 189711月~18981月外務大臣(第2次松方正義内閣) 18981月~18986月外務大臣(第3次伊藤博文内閣) 18984月 第3次日露協

西 竹一   
1902(明治35)年7月12日生 1945(昭和20)年3月17日没 東京都出身 妻武子 長女小松淑子 長男西泰徳  次女高井広子

 戦車第26聯隊聯隊長として1944(昭和19)年、満州北部から内地へ帰還
7月1日 横浜着 世田谷の獣医学校で「ウラヌス」号と会い、たてがみを切り取りポケットに収めた
7月14日「日州丸」で戦車第二十六聯隊(兵員600、戦車28両)とともに横浜を出発
7月17日「日州丸」はアメリカ潜水艦「コビア」の雷撃を受け沈没(戦死2、車両全損)
1945(
昭和20)年2月~硫黄島の戦い
3月17日戦死 戦死時の詳細は不明 戦死日は16日、21日、22日? 銀明水近くの海岸で機銃掃射を受け、連隊本部の将校約10名と共に戦死?


  軍馬補充部十勝支部 

1910年(明治43年)軍馬補充部釧路支部足寄太出張所として仙美里に開設し、1925年(大正14年)に釧路支部から分離する形で十勝支部に昇格している。現在の本別町西仙美里から足寄町上利別まで広大な約2万ヘクタールの敷地で軍馬の供給、育成、購買などを行った。2歳で買い入れた馬は5歳になるまで育てられ、旧国鉄仙美里駅から戦場に送られた。

もともとは陸軍省外局の一つで、軍馬の供給・育成から購買を行っていた。明治7年に設置された軍馬局を前身として、明治29年軍馬補充部に改称された。国内各地に支部を持ったが、昭和2011月の陸軍省廃止と共に解体されている。
 明治7年陸軍省内に設置された軍馬局は軍馬の調教を行い、支部にあたる東京の第一厩と仙台の第二厩を管轄した。

昭和21本別町西仙美里のこの地は北海道立農業講習所(昭和49年から北海道立農業大学校)が取得し、足寄町鷲府にあった用地は昭和24年に九州大学が取得し北海道演習林として利用されている。
 その他の土地には、戦後本州や旧満州から多くの開拓民が入植している。昭和63年には国鉄仙美里駅長の森弘さんが軍馬の「鎮魂碑」を建立した。
 また
現在道立農業大学校の敷地横には、当時「仙風荘」と呼ばれた同支部の宿舎があり、修復を重ねて現在も集会所として活用されている。

  
    
      〈当時の軍馬補充部の職員 本別神社で撮影)           〈現在も残る「仙風荘」とそれに隣接する建物 ) 

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