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  本別空襲Ⅰ 細岡幸雄さん
                                  
 ほそおかさちお
                                                                    
             
     
  
                
 
 
     (本別高校生に語る細岡さん 2009 7 13) 
 

 
     
  〈この日の記事 北海道新聞 2009 7 14〉〉 

 
 〈「ここに山内先生が斃れていました」と指差す細岡さん〉

       
          〈当時の山内三郎教頭)

 
    〈山内教頭の慰霊碑 毎年慰霊祭が行われる〉 

        
          〈現在の本別町中心部〉 

 
     〈燃える町の中心部 米軍機が撮影している〉 
 
   〈兄一男さんが倒れていたところを指差す細岡さん〉
 

本別空襲の犠牲者数は、40名あるいは42名といわれている。男性が18名、女性が22名という計算になる。銃後の生活をしているためか、女性の数が若干多い。さらに、17名が20歳未満の若い生命であった。

その中に、満16歳の少年細岡一男さんが含まれている。細岡一男さんは、昭和4年に地元本別町西美里別に生まれた。生家は明治年間に富山県より入植した開拓農家であった。5人兄弟の長男として、生家に近い高等尋常小学校(当時は国民学校)を卒業後、本別町の青年学校に通学していた。青年学校というのは、軍事訓練を中心とした教育が行われていた機関である。

「当時はですね、戦争一色でしたから、ここに20歳に満たない若者は半ば強制的に入れられていたんです」 と語るのは、一男さんの弟にあたる細岡幸雄さん〈昭和5年生) である。幸雄さんは、当時昭和17年に開校したばかりの本別町立本別中学校(旧制中学校)3年生であった。現在の、北海道本別高等学校である。2クラス120名が、一学年の定員であったらしい。

「自宅から中学校までは、13キロほどありました。当時は自転車さえも貴重品の時代でしたから、自宅から通学できないんです。本別の町に下宿をしていたんです。学校にしても、電話も電気も通っていなかったんですよ」

昭和20年の新学期になると授業は殆んど実施されず、いわゆる「勤労動員」に生徒たちは駆り出されるようになる。
「一月ほど、陸別の排水路工事に行っていました。その後多くの生徒は、山林に入り松脂をとる仕事をしていました。松脂から油をとるんです」 細岡幸雄さんは、学校の計らいによって「援農」の形で自宅の手伝いをすることになった。登校日は、それぞれの月の1日と15日の二日間に定められた。この「15日」 というのが、運命的な「日」 となる。空襲当日の715日と、終戦の日の815日である。

714日の帯広や池田などの空襲のことなど、何も知りませんでした。ラジオだってろくにない時代です。兄一男と一緒に朝家を出ました。学校に行くのを二人とも楽しみにしていました。自宅に自転車 は一台しかなかったので、私はたまたま小学校の教員住宅の建設に来ていた大工さんにこの日、自転車を借りたんです」。

「空襲の10分くらい前に中学校にたどり着くと、友人の門田君と秦君がいました。本別の町に空襲警報がでていたことも、よく知らなかったのです」
 登校してきた生徒と教員の多くは、近くの避難用防空壕と「蛸壺」 を作る作業をしていた。その友人二人は、教員に空襲警報がでているので、万が一の敵機襲来の見張りを依頼されていた。

「まさか、米軍機が来るとは思いませんでした。機影が見えたときも、友軍機だと思っていました。町への爆撃が始まった後、すぐに中学校が襲われました」 細岡さんたちは、急いで避難用蛸壺のほうに移動した。

「亡くなった山内一郎教頭は、私たちに動くなあ。動くなあと叫んでまわっていました。結果的に教頭先生が、一番動き回ってしまったんですね」 中学校に向かって20数発の爆弾が投下されたが、奇跡的に直撃弾はなかった。

「なかなか命中しないものですね。生徒も一人が負傷しただけです。しかし、なくなった山内先生とは別に、川崎先生の背中には破片が突き刺さり血だらけになっていました。防空壕に避難した校長先生も、泥だらけになっていました」。

「下校の途中知り合いの塚田さんに会い、兄一男が負傷していることを知り利別川の川原に行きました。右足の膝から下が、切断されていました」  町は、燃え上がっていた。運び込む医療機関ももはやなく、なすすべもなく一男さんは放置されていた。
「誰かが、兄の腿の部分を縛って止血してくれていました。でもね、血がなんぼでも出るんです。死ぬのを待つしかなかったんですね」

その後、街中へ戸板を担架代わりにして運搬したが、なすすべがなかった。
「喉が渇いていたんですね。知り合いのおばさんが、タオルに水を含ませ絞って小川の水を飲ませてあげたんです。ゴクンと飲んだあと亡くなりました。いったい何時ころだったんでしょうか、その日は時間の感覚がまるでないんですよ」。

遺体は一週間後、自宅近くの河原で火葬された。一月後、815日の登校日を迎える。正午に玉音放送が流される。
「そのころは、本当に洗脳されていたんですね。僕たちは、日本が負けるとは夢にも思いませんでした。この日の放送も、9日に攻め込んできたソ連軍に対して日本が宣戦布告する内容だと思っていたんですから」
                        

アメリカ側の記録では、本別空襲に参加した米海軍機は43機である。襟裳岬方面に展開していた小型空母サンジャシントからのグラマン・アベンジャー艦上攻撃機8機、グラマン・ヘルキャット艦上戦闘機1機、空母レキシントンからのコルセア艦上戦闘爆撃機8機、ヘルダイバー艦上爆撃機11機、グラマン・アベンジャー艦上攻撃機15機とされている。(松本尚志氏調査)

 ロケット弾も装備し日本のものとはかけ離れた性能の、攻撃部隊であった。当時の米軍は、神風特別攻撃隊の攻撃に手を焼き、国内の全ての飛行場を破壊することも目標の一つとしていた。

当初の攻撃目標は帯広にあった第一飛行場と第二飛行場、そして修理工場(第6野戦航空修理廠)と考えられる。しかし14日15日とオホーツク高気圧の影響で太平洋側は低い雲に覆われ、海岸に近いほど下界が見えない状況にあった。

一度発艦した艦載機は、爆弾を積んだまま空母に着艦することは不可能なため、別の目標物を探すために雲の切れ目を求めていたに違いない。その雲の切れ目の下に、本別町の町がひろがっていたのであろう。

早朝から米軍機は行動を起こしていたようで、午前5時ころ本別町に設置されていた哨戒所(観測所)にいた石山さんは、米軍機の編隊が雲の上を北側から南側に移動していく音を聞いている。この時帯広の本部に「米軍機通過」と報告したところ、「なぜ米軍機と分かる」と、担当者は怒鳴りつけられたという。

当時17歳の早坂トモエさん〈現在音更町在住〉は、足寄町大誉地(およち)地区の自宅で米軍機の大軍を目にしている。
「朝食の時間ですから、午前6時30分ころだと思います。普段から、飛行機の音は珍しくなかったのですが、いつもより大きな爆音に屋外に飛び出すと、日本軍とは明らかに違う、黒い色の飛行機が飛んでいました。アメリカ軍機だったのですね。雲が立ち込めていたのですが、そのうちの一機が急降下して、大誉地の集落を伺って行きました。そのうち、何となく雷のような地響きのようなものが聞こえて来ました。今思うと、本別が襲われていたんですね」。

この飛行機の編隊は、北見方面から本別方面に飛んでいる。どのような航路を取ったのかの詳細は不明であるが、本別空襲に参加した編隊の一部と考えられる。

当時、トモエさん宅には、茨城県内原から送られた満蒙青年義勇隊の少年二人が、援農の形で滞在していた。戦局の悪化に伴い、満州への移動を断念し、その代わりに北海道に送られたという。連合軍の上陸に、おびえていた。連合軍が北海道に上陸すると、若い男は捕らえられたり殺されたりすることを恐れていたという。

先に到達した編隊が無線で他の編隊にその位置を伝え、本別上空で合流して組織的な攻撃となったと考えることができる。 

当時の米軍地図には「本別」が記載されておらず、記載されている「池田」と長期間取り違われていた部分もある。本別を空襲するにあたっては、建設中の体育館(旧制本別中学校のもの)が兵舎に見えたらしい。中学生は当時の国民服を着用していたが、軍服同様のものであったから米軍には兵士に見えたことだろう。

米軍の爆撃は、意外なことになかなか目標物に命中していない。本別中学校には250㌔爆弾が20数発投下されたが一発の直撃弾もなく、利別川に架けられた二つの橋も使用不能には陥っていないのである。

当時本別中学生だった、山根孝雄さん(帯広市在住)は、校舎の南側に掘られた「たこつぼ」の中に入りながら本別中学校が攻撃される場面を目にしている。「北側から編隊がやってきて、ジュラルミンでできた機体の裏側がキラキラ輝いているのが見えました」。

 本別空襲での犠牲者数は40名あるいは42名とされている。279戸が全焼し、113戸が全壊している。罹災者は1915名、当時の本別町の人口は約1万2千であった。
  
        
        〈亡くなった細岡一男さん〉                        〈当時の旧制本別中学校)  

       
      〈攻撃を受けている本別中学校  米軍撮影)               〈当時の本別中学校の生徒と職員) 

                
                〈米軍機が飛来した方向を指差す山根孝雄さん  2009 7 17    当時の山根さん) 

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