HOME〉Hiroshima                                              Hiroshima>Novem〉2010

  
 
 
           原爆資料館 2010                                                                                                                                
 

                 
        
                             
                   この日も多くのテレビカメラが入っていた 2010 11 10

   
  代表的な展示物を紹介したい

 手島範明君の手の爪と皮

 

県立広島第二中学枚1年生の手島範明君の、手の平の皮と剥がれた爪である。この日手島君は、爆心地から600メートルの、中島新町で建物疎開作業中に被爆した。飛び込んだ川から土手をはい上がり、家を目指して歩いた。やけどを負った手で土手をはい上がったために指がちぎれかけ、皮だけでつながっていたという。
            
 全身の皮膚が垂れ下がり、友人に助けられて帰宅した。水を飲ませてもらえずのどの渇きに耐えかねてか、一晩中ツメのはがれた指先から出るウミを吸ったという。翌7日に死去。母親がツメと皮膚の一部をはさみで切り取り、形見として残していた。

    人 影 の 石

爆心地から約250メートル、紙屋町の住友銀行広島支店の入り口階段にできた人影である。この人は爆心地の方を向いて階段に腰掛け、原爆炸裂の瞬間閃光を真正面から受け、その場で黒焦げになり亡くなった40代の女性といわれている。周囲が熱線を受けて白っぽくなり、人が座っていた場所だけが黒っぽく残っている。「人の影」とも呼ばれている。



  

   ③山下博子さんの髪の毛

 山下(旧姓吉田)博子さん=当時18歳=は、6歳の弟勇策君と爆心地から800メートルにあった大手町の自宅1階で被爆した。被爆後、二人はメチャメチャになった家の外に出た。彼女は体に37カ所もけがをしたが、幼い弟は無傷であった。
 弟は、21日まで元気にしていたが、突然高熱を発した。髪の毛が抜け落ち、その後鼻から大量の血を出し腐れた内臓を吐き出し死亡した。

 博子さんはある朝目が覚めると布団の周囲に、毛が抜け落ちていることに気が付いた。はじめは猫の毛と思ったが、それは自分の髪の毛であった。母親恭さんが博子さんの髪をとかすと、いとも簡単に毛が抜け落ちた。
         当時の山下博子さん

 
        〈山下博子さんの髪の毛〉

 当時「髪の毛が抜けることは死が近い」と言われていたので、博子さんは弟と同じ運命とあきらめていた。しかし、博子さんはその後驚くべき回復を見せ、後遺症に苦しみながらも47年に結婚。髪も元どおりになっていった。 
   


    黒 い 雨

 原爆の爆発後、午前9時くらいから爆心地から北西の広い地域で、「黒い色」が降った。雨は激しく1時間あるいはそれ以上続いた。爆発の時巻き上げられた泥やちり、黒いすすなどを大量に含んでいたので、「黒い雨」と呼ばれた。油っぽく、ねばねばした上に、それには放射能を帯びた物質が含まれていた。

    
 

  ⑤焦げの弁当箱

原爆が炸裂したとき、県立広島第二中学校の1年生だった折免滋(おりめん・しげる)君は同級生と一緒に毎日、建物疎開作業に動員されていた。

     

 8月6日も、母親の作った弁当を持って、朝早く家を出た。物不足のため弁当には、米・麦・大豆をまぜたごはんにジャガイモと千切り大根の油いためが入っているだけだった。 滋君たちの作業現場は、爆心地から600メートルの中島新町(現在広島国際会議場のあたり)であった。彼はそこで被爆し、亡くなった。母親がが滋君を捜して破壊された街を歩き回り、翌9日早朝、本川の川岸で弁当をおなかの下に抱きかかえるような姿で亡くなっている滋君を見つけた。滋君が食べることのできなかった弁当は、真っ黒にこげていた。

  動員学徒(中学生)の制服

市立中学校の1、2年生は、爆心地から800メートル離れた小網町の建物疎開作業現場で被爆し、多くの犠牲者が出た。この衣服は、亡くなった3人の生徒が身につけていたものを一体にしたものである。
 学生服とズボンは2年生の福岡肇君、帽子とベルトは
1年生の津田栄一君、ゲートルは1年生の上田正之君のものである。息子を失った母親たちが、服の一部分ずつを見つけ、その悲しみと怒りを表すためにこれらの貴重な遺品を資料館に寄贈したものである。

       

   伸ちゃんの自転車

鉄谷伸一君(3歳)は爆心地から約1.5キロメートル離れた東白島町の自宅の前で三輪車に乗って遊んでいた。突然空が明るく光り、伸一君と三輪車は激しく焼かれ、伸一君はその日の夜、亡くなった。 父親は、三輪車を伸一君の亡骸と一緒に自宅の裏庭に埋めた。
 40年後の1985(昭和60)年の夏、父親は伸一君の遺骨を掘り出し、墓に納めた。その時この三輪車を父親が資料館に寄贈した。

  




    
         〈蝋人形の展示にも胸が痛む〉

                     
   
  
                                        
                     〈実はもっとも揺さぶられたのは、被爆直後のこのパノラマ写真であった〉

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