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          中村悦雄さんの被爆体験                                                                                                                                
 


                 
        
      
                 〈北海道本別高校 被爆体験講話にて 2010 10 14

       
 
   平和のセレモニー 本別高校 2010 11 10
  
       
       〈この日の原爆ドーム 2010 11 10〉

  
          
 〈本別高校生の歌声が響く

  
         〈「千羽鶴」を捧げる
  
 
      〈本別町から持参した「命の水」を捧げる
   
       
帯広市在住 1931年7月 広島市生まれ 

『お前らは日本人じゃないのか!』。血だらけの男性からののしられた言葉は、決して消えることはない。広島市内の工場で被爆した中村悦雄さんは、大けがをした工員から助けを求められたが、黒こげの死体が転がる中、級友と手をつないで逃げることで精いっぱいだった。14歳の時のことだ。

左側でせん光走る

 1945年8月6日午前8時15分。当時14歳、広島市内の山陽中学に通う2年生だったが、その時は学徒動員で爆心地から約1・5キロ西の魚雷を製造する軍需工場(広島市福島町)で働いていた
 前の晩は空襲警報がいつもより多く、寝不足だった。工場の朝礼のため、教室ほどの大きさの集会場で机に上体を伏せていた。
 左側でせん光が走ったのだけは覚えている。青白い光に驚いた。初めは電気の事故かと思い、顔を上げ電灯を見た。その直後衝撃波がきて吹き飛ばされ、気絶した。逃げ出す人に踏まれて、意識を取り戻した。

 右隣にいたはずのクラスの委員長大原君が、窓枠の直撃を受けて倒れていた。爆風で吹っ飛んだ窓が直撃したのか、揺すっても反応がなかった。初めて死者を間近で見た。自分自身も後頭部から首筋にべっとりと血が付いていた。

とにかく真っ暗だった。自分の目がやられたと思い自分の目を触ってみた。次の爆弾が来ると思い、死を覚悟した。
 少しずつあたりが見えるようにはなってきた。あたりは静かで「死の静寂」があった。混乱状態の中で、級友が「ああ、もうこれで広島も最後か」と、つぶやいた言葉が忘れられない。

担任の弘津先生はテニスをしてとても頑丈な方だったが眼鏡が吹き飛ばされ、顔がバレーボールのように膨らんで誰か分からなくなっていた。手を骨折したようで、布のようなもので片手を吊していた。そして私たちに「火の手が立っているから、早く逃げるんだ」と言われ急いで外に出ると、周囲の家はぺしゃんこだった。皮膚が焼けただれた母子が、毛布を巻いてゆっくり歩いていた。

  うめく声重なる

 がれきの中、友人Y君は「みんな逃げていったよ」と言った。自分の弁当箱を探したが見当たらず、二人で西側の郊外へ進んだ。工場のそばの木造の建物の中から、「水をくれ」「助けてくれ」の声がいくつも重なって聞こえた。救護所になっているという小学校にむかったが、人がいっぱいだった。

 道路がふさがれ、なかなか前に進めなかった。橋が燃え始めていたので、血で染まった川に飛び込み川の中を歩いて渡った。
「黒い雨」は、午前中に降った。でも「黒い」とは認識しなかった。

ようやく山の中に逃げ、山の上から広島の町を眺めた。黒煙がたくさん上がっていた。級友Y君(特別親しかった分けではないので、名前が曖昧)とは横川駅で別れた。それ以来、彼とは会っていない。1カ月後に再開された学校にも来なかった。

 実家のある現在の広島市安佐南区(当時は八木村か)。町の火災は、一週間燃え続けるのが見えた。

 幼なじみも死んでしまった。よく一緒に遊んだ隣家の細田良作君は、翌日の夕方に腕に添え木をし担架に乗せられて帰ってきた。「りょうちゃん りょうちゃん」と呼んでも、とろんとした目で上を向いているだけで、返事はなかった。次の日、「これで父さんのところに行けるね」と言って黄色い液を吐いて死んだ。
 木下君(同級生だったが1年遅れて山陽中学校に入ってきた)は、数日後帰ってきた。全身包帯で巻かれていた。ベルトの金具を見て、彼だと分かったがすでに亡くなっていた。10日後荼毘にふされたが、お腹がパンパンに膨れて竹槍でハラを突いたら水が飛び出してきた。
 高橋君は、顔の半分が火傷していた。学校にきて「火傷した指が2本くっついてしまったので、自分でナイフを使って鉛筆を持てるようにしたんだよ」と語った。町内会長の新部さんは、歯ぐきからの出血が止まらず死亡した。
 1週間後、市内の学校を訪れた。学徒動員されていなかった1年生400人は全員死んでしまった。市内にあった29の中学校では、計8045名が死亡した。通学路だった相生橋から川を眺めた。やけどして背中が真っ白になったボラが、群をなして泳いでいた光景を覚えている。
                        

 
  まだ残る偏見、差別

 中村さんが以前、ある高校の教室で体験を語った時、自身が被爆したことを話した途端に、最前列の生徒が反射的に立ち上がり後ずさった。「放射能汚染を恐れたのだろう。まだこんなにも偏見があるのかと驚いた」という。だから、「風化させたくない」との一心で、中村さんは道被爆者協会副会長を務め、道内各地で語り続けている。

                     
         
  
                          〈2010 11 10の母と子の像   10 14 の被爆体験講話〉

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