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    グアム島の玉砕Ⅱ
                               

  
アメリカ合衆国準州                       
 
    
          〈人型の慰霊碑 南太平洋戦没者慰霊公園にて 2005 1  
       
 
 
        〈叉木山の最後の陣地壕〉

 
        〈その壕の内部から入り口を見る〉

   
           〈小畑英良中将〉

 
        〈叉木山から高原山を見る〉

     
              〈高品中将〉

 
  叉木山(またぎやま)

726日アメリカ軍は、戦車を先頭にマンガン山に攻撃を開始した。翌日高品師団長は、日没とともに北部へと移動を開始した。移動した生き残り兵士は3千名ほどであるが、皆傷を負っての敗走であった。
 728日アメリカ軍戦車10両が、師団司令部のある本田台を包囲した。師団長は3千名の生存者を考え、北方へ脱出して再起を決意した。移動は夜に行われたが、途中で多くの重傷者が次々と息をひきとった。

最終的に叉木山に終結した日本軍は、約2500名であった。武器弾薬は既になく、すべてを銃剣突撃にかけるより他なかった。
 89日アメリカ軍は戦車50両を先頭に、日本軍最後の砦であるこの又木山を攻撃した。生き残った日本兵は、わずか500名と言われている。

810日軍司令官は、翌11日に最後の攻撃をすることを決心した。又木山に生き残った兵力はわずか300名で、大部分が負傷兵あった。ほとんど戦う術をもたない司令部陣地は破壊され、兵員のすべてが戦死した。軍司令官小畑中将は拳銃で自決した。ここにグアム島は陥落し、日本軍の組織的戦闘は終わった。
 現在この叉木山は、「南太平洋戦没者慰霊公園」として整備されている。整備されているとはいえ、やはり訪れる人の数は少ない。公園の中央には、漢字の「人」をかたどった大きな慰霊塔があり、周囲には数多くの慰霊碑が並んでいる。

その一つ一つに手を合わせたが、私を驚かせたのは、この「人」型の慰霊塔の真下にいわば最後の司令部洞窟が複数あったことである。
 人気のない階段を降りると、洞窟が並んでいる。中に入ると通気が殆どなく、咽かえる湿気と熱気に圧倒される。ここで、多くの将兵が命を失っているわけである。

グアム奪還のためにアメリカ軍も、7千名の死傷者を出した。日本の兵力は約2万であるが、収容所に収容されたのは1250名であった。当時グアムには民間邦人300名、現地住民24000名がおり、彼らも戦闘に巻き込まれた。又木山の東にある「高原山たかはらやま」に避難した邦人の婦女子たちは、自殺を強要されたといわれている。

ジャングル

811日の組織的戦闘が終わった後も、サイパン同様少数の日本軍兵士はグループとなってジャングルに入り、ゲリラ戦を展開していた。彼らは日本軍の反撃を信じながら、約1ヵ年にわたってゲリラ戦を続けていく。しかし食糧不足と米軍の掃討に、昭和20年に入ってからの半年は生き延びるための戦いであった。

 佐藤博文たちは、その後島の最北端の岬に向かった。現在は、アメリカ軍の太平洋戦略の要「アンダーソン基地」のあるあたりである。
「島の最北端に行けば、潜水艦が迎えに来ると聞かされていたんです。でも、誰もいなかったんです。仕方なく、また南のほうに向かっていきました」博文

南部のジャングル地帯へ逃げ込んだ日本兵は2千人以上にのぼり、米軍の歩哨を襲って武器を手に入れB29を焼き討ちしたり、ゲリラ活動を行っていた。
「結局、6ヶ月ジャングルの中にいました。いろんな兵隊と一緒になったり別れたりを、繰り返しました。確かに、アメリカ軍に殺されてどんどん仲間の兵士の数が減っていきました。
 一番長く一緒にいたのは、サイパンからグアムにきたコレステマ・ルイスというサイパン支庁警務課の優秀な準警です。
彼は日本に協力していたわけですから、グアムの島民に見つかったら殺されると思っていたのでしょう。警察官をしていたので、足跡の消し方などとても詳しいのです。川の中を歩いて足跡を消し、小屋を作ってひっそりと暮らしていました。でも、ある日食料を採りに行ったきり戻りませんでした」
ルイスはアメリカ軍に発見され、その後裁判に掛けられていった。
 
 グアム島は大きい。淡路島ほどの大きさがあり、サイパン島の約2倍の面積をもっている。アメリカ軍はジャングルに潜む日本軍兵士の掃討作戦を行ったが成果はなく、次第に投降を呼びかける作戦に変わっていった。

「アメリカのキャンプに、忍び込むこともありました。10回以上は忍び込んで、食料を頂きました。アメリカは物資が豊富で、昼食のあまった缶詰などはその場に埋めて帰っていくんです。私は、短剣を地面にさして掘り出しました。一度に、30から50個も手に入ったことがあります。ある日、パパイアを4・5人で採りに行って、私以外の全員が撃ち殺されたことがありました。死んでいる兵隊の衣服や靴を、使うこともありましたよ」

大切な火などは、どうしたのだろうか。
「布を巻いて、火縄にしていました」
 やがて、佐藤博文は投降を考える。わずか19歳の少年が一人ぼっちになっての、決断である。「一人で、広い道路を歩きました。アメリカ軍が来るのを、待ったんです」

 815日の無条件降伏を、17日にアメリカ軍は全島にくまなく知らせるビラを撒いた。
「日本国は天皇陛下の命により降伏した。日本兵は天皇陛下の命に従い、武装を解除して戦闘行動を中止しなければならない。日本兵は、もよりの米軍駐屯地に投降せよ」との掲示を島内のいたるところに立てた。

これは効果をあらわし、大方の者は投降した。中には終戦を信じずにジャングルに潜む者もおり、皆川文蔵、伊藤正は1960年にタロフォフォで発見され、その13年後には横井庄一が同じタロフォフォで発見され日本に生還している。

佐藤博文は昭和21年帰国し、故郷の八丈島に戻った。この間、サイパン島に残っていた博文のご家族はどうしていたのだろうか?
「実は、私がグアムに渡る2月前の昭和193月、あのサイパンからの疎開船亜米利加丸に、私のほかの家族全員が乗ったんです。そうです、あの船に乗って助かったのは三人だけです。私以外の家族全員は、その時に亡くなりました。家族の荷物は、別の船に乗せられていました。ですから荷物だけが、故郷の八丈島に着いたんですよ」 私はこの話を目の当たりにし、言葉を失った


  
            〈使用されることがなかった、「ピティガーンズ」と名付けられた日本軍の砲 左現在 右は当時〉

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