HOME〉guam                                                  Guam island >2005-2004



            
    グアム島の玉砕Ⅰ
   
                          
  
  
アメリカ合衆国準州                       
   
 
                                  〈美しいアサンビーチ〉   
              
 
 
    〈名所「恋人岬」からみたグアムのホテル街〉

         
              〈佐藤博文さん」〉

 
           〈アサンビーチに上陸する米軍〉

 
         〈アサンビーチに残る日本軍の壕〉

  
             〈当時のその壕」〉

  
           〈ニミッツビルからの眺め〉


 

  
    

  

 

グアム島は、現在年間100万人の日本人観光客を迎えるリゾート地である。1980 年代と比べると観光客が減少したとはいえ、東京から3時間札幌からも4時間という手軽な距離は、多くのリゾート客を引きつけている。
 かつて冨田湾と呼ばれていたタモンビーチには、豪華なリゾートホテルが立ち並び、近年整備され「ホテルロード」と名づけられた繁華街を歩くと、歩行者の大半が日本人観光客のいうことに気がつく。

私が訪問した200 412月も多くの日本人客で溢れていた。家族連れが明るい笑顔で、年末年始の休暇を過ごしていた。いったいこのうちのどれくらいの人々が、60年前のこの島の出来事を知っているのだろうか。

グアム島からの生還者は、少ない。日本軍の守備隊は約22000、そのうちの2万以上が戦死し、わずかに生き残った者は1500名とされている。ましてや日本の民間人となると、きわめて少数と言う事になる。

私は、そのグアムから生還した民間人の一人と対面することができた。東京都板橋区にお住まいの佐藤博文さんである。佐藤さんの奥さんは、先に紹介したサイパン島からの生還者佐藤栄子さんである。
「私が乗った東京からサイパンへの船が、沈められたんです。幸いサイパン島のそばだったので、重油だらけになりながらも陸に上がれたんです。その時、救援活動していたのですね今の妻が」博文

博文さんは、大正14年八丈島に生まれ、一家は昭和7年ころカロリン諸島のポナペ島に移住している。ポナペ島に1年ほどいたあと、サイパン島に一家は移った。

「八丈島も土地が狭くてね、次男三男は島から出で行かなければ食べていけないんです」その後博文は、サイパン島の南洋庁の郵便局員となった。そして、逓信関係の講習を受けるために東京1年間滞在することになる。それが終わりサイパンへ帰島するときに、乗っていた船が撃沈されたわけである。

太平洋戦争が始まると、日本は南方侵攻作戦を進め、真珠湾のわずか2日後の1210日に当時米領だったグアム島に上陸している。米軍はグアムをそれほど重視しておらず、日本軍は抵抗も受けずに1日で占領してしまった。
 山へ逃げ込んだ米兵も翌日には降伏し、その後グアムは28ヶ月にわたり日本の占領下におかれることになった。

グアムへ

その後の日本軍は、さらに戦線を拡大しようとして、珊瑚海やミッドウェーの海戦で敗退し、空母や優秀なパイロットの多くを失い、占領地維持も困難に陥っていく。

19428月、準備を整えたアメリカ軍は反撃に転じた。翌年5月、アッツ島守備隊が玉砕し、マーシャル諸島も次々と連合軍の手に落ちた。   米軍の反撃がいよいよせまってきたことを悟った軍部は、「絶対国防圏」を設定した。1944年に、第31軍(小畑英良中将)を新設し、満州の第29師団をグアムに派遣した。

この島には、当初約2千名が配置されていただけであったが、満州から部隊が続々到着し、昭和196月には兵員数2万人を超えていたわけである。
 小畑司令官は4月にグアム島に来島し、米軍の上陸地点を明石湾と予想して陣地作りを始めた。しかし、物資不足で満足なものは作れず、食料や水も不足するありさまであった。しかも、サイパン同様に配備計画の変更が続き、守備計画は混乱していた。部隊の配備が決定したのは、米軍上陸の僅か1ヶ月前であった。

そんな昭和19年、サイパンから3名の郵便局員がグアム島に送られた。その中に、佐藤博文も含まれていた。
「北見市出身の大橋さんと、一緒でした」米軍が上陸すると予想した明石湾と昭和湾には、水中障害物が400個設置されていた。しかしセメント不足で歩兵陣地はタコツボ式で、重要な部分は洞窟を利用していた。

1944611日、アメリカ軍はサイパン、テニアン、グアムに空爆を開始し、15日サイパンに上陸する。空母9隻で応援にむかった連合艦隊はアメリカ軍の待ち伏せにあい、空母3隻を失い4隻に損傷を受け、残った艦載機はわずか47機という大損害をこうむってしまった。これがマリアナ沖海戦である。以後、サイパン、グアムは孤立無援の戦いを強いられることになる。

77日に、サイパンでは組織的な戦闘が終了した。米軍は、サイパンへの砲爆撃が思ったほどの効果を得られなかった反省から、グアムには砲爆撃を2週間行うことにした。

8日から、グアムはアメリカ軍の猛烈な砲爆撃にさらされることになる。サイパン島陥落は軍部に打撃を与え、18日に東条英機内閣は総辞職した。そしてフィリピン・台湾・本土に、防衛線を後退させることになった。つまりこの時点で、グアム島もサイパン同様見捨てられたことになる。 78日から、アメリカ軍の艦砲射撃が始まった。戦艦6、巡洋艦9、駆逐艦57で発射弾数は16千発にのぼった。

アサンビーチとアガットビーチ

1944721日は、早朝から快晴であった。米軍は見晴岬(アサンビーチ)と昭和湾(アガットビーチ)に艦砲射撃を開始し数百の飛行機で攻撃を加えた。  
 午前6時、砲爆撃の間をぬって上陸用舟艇が海岸に上陸を開始した。3海兵師団は見晴岬方面(アサンビーチ)に、第1海兵旅団は昭和湾(アガットビーチ)に上陸した。日本軍はすでに戦力が半減していたが、アサンビーチに陣取った部隊は、上陸用舟艇に砲撃を加えた。日本軍は、上陸用舟艇10数隻と戦車数台を破壊したが、これはアメリカ軍の陽動作戦であった。 

日本軍に砲撃させておいて、さっさと逃げる。そして日本軍の発火点を確認して、徹底的に砲のある場所を攻撃し本格的な上陸を行ってきた。こうして見晴岬は、あっという間に占領されてしまった。
 午前8時アサンビーチに上陸した米軍は、戦車を先頭に南進を開始した。午前10時から、壮烈な肉薄戦が行われ、日本軍は多数の戦死者を出した。爆薬を抱いて戦車に体当たりする兵士もいたが、雨のように降り注ぐ砲爆撃に次々と日本兵は倒れていった。昭和町も同様な状況で、ほぼ全滅した。この日日本軍はおよそ3千の戦死者を出し、重火器はほとんど破壊されている。

この日、佐藤博文たちはどうしていたのだろうか。
「勤務先の郵便局のお金を 、山の中に埋めました。そのあと20人くらいの兵隊たちと一緒に、行動しました。林の木が、アメリカの砲爆撃ですっかりなくなってしまい、見晴らしがよくなっていましたよ」

 721日夜から23日にかけて、日本軍は大隊ごとの反撃をしたが、戦力の大半を失っていく。暗くなると米軍は攻撃を止め、戦車を前に出して防御態勢をとる。照明弾の中、日本は何度となく夜間攻撃が繰り返えしたが、いたずらに死者の山を築くだけであった。
「私も、3回決死隊に出されました。私は軍人ではないですから、竹やりだけ持たされたんです」佐藤博文

現在アサンビーチは、公園となってアメリカ軍の上陸した海岸も整備されている。かつての浅間岬には、多くの日本軍の施設が残っていた。
 日本兵が、立てこもるための洞窟があった。こんな海岸の近くでは、たてこもることもなく撃破されてしまったことだろう。

日本軍が主力を置いたかつての「マンガン山」は、提督ニミッツの名をとり「ニミッツヒル」と名づけられている。そこからは上陸したアサンビーチと、死闘が繰り広げられた野原が手にとるように見える。

現在展望台は、公園になっており複数の記念碑が建っている。ひとつには、この戦争で戦死したそして負傷した現地チャモロ族全員の名が、刻まれている。当時この島にいた現地住民は、24千名といわれている。

もう一つの記念碑は、三枚の絵で、構成されている。一枚目には、日本軍が上陸してきた様子が、二枚目にはその日本軍が、「侵略者」として住民を苦しめる様子が、そして3枚目はアメリカ軍が上陸し、住民と共に「解放」を喜び合う姿が描かれている。現在グアム島は、サイパンとは違いアメリカの「準州」である。いわゆる「州」と違い国会議員を選出する事は出来ないが、他の面では殆どアメリカ国内とは大差がない。

もう一つの上陸地点昭和湾(アガットビーチ)でも、第38連隊3000名が夜間攻撃を行ったが殆どは壊滅してしまった。23日からアメリカ軍の攻撃は再開され、本田台を中心とする激しい戦闘が行われた。

小畑軍司令官と高品師団長は、昭和湾方面(アガットビーチ)のアメリカ軍が進出してこないのを見て、全力をマンガン山に結集して25日に総攻撃を行った。総攻撃とはいうものの、歩兵2個大隊・砲20門・戦車2個中隊にすぎず、玉砕に近い大敗を喫してしまった。


   
                    〈米軍は西海岸の各地に上陸した。各地にポイントが残る〉

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