HOME〉Guadalcaanal Guadalcanal Island >2003-08 墓場の島ブーゲンビル ソロモン諸島 |
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こうして方川新一・金谷新三郎・斎藤清は、ガダルカナル島エスペランス岬からブーゲンビル島に移動することができた。そこでも、野戦病院での生活が大半であった。 斎藤清は、アメーバ赤痢に冒された。そして、毎日のように空襲を受け、腕と足に負傷している。足には、60年経った現在も尚破片が残ったままである。 「遺族の方を思い、今まで話せなかった事があるんです。実は、ブーゲンビルでも多くの仲間が亡くなったんです。私は体重が40キロくらいになり、野戦病院に居ました。毎日、20人くらいずつ亡くなっていきました。大きな穴が掘られていて、100人になったら土を掛けて埋め、次の100人のためにまた新しい穴が掘られていくのです。そのなくなった人たちの姿といったら、とても言葉で伝えられるものではありませんよ」方川新一 ブーゲンビル島は、ガダルカナルからもニューブリテン島からもそれぞれ500キロの距離がある。この島も、ラバウルのあるニューブリテン島と同様にアメリカ軍の飛び石作戦によって終戦まで取り残された島である。 多くの将兵がこの地を経験している。ガダルカナルから撤退した兵隊達が、まずたどり着いた島がここである。この島も食料・医薬品が不足し、大きな戦闘はなかったものの連日の空襲も加わって大量の死者を出している。折角ガダルカナルから撤退した兵士たちも、ここで体力を回復させることが出来ず息絶えた者が多かったのである。「墓場の島ブーゲンビル」と呼ばれている所以である。 私はある方から、電話を頂いた。 彼の本隊第二師団東部31部隊は当時ジャワ島にいたが、24ノットの高速輸送船の上で所属替えを命じられ、たどり着いた先はニューブリテン島のラバウルであった。 その後、酒井勉はブーゲンビルに移り、この島でも彼は各地を転々としている。 日本からの補給は、序序に途絶えていった。 彼は大正9年に幕別町に開拓農家の六男として生まれ、昭和15年千葉県四街道にある野戦重砲兵第四連隊に入隊した。志願したのは、早く兵役を済ませ満蒙開拓団に参加する計画があったためという。満州牡丹江から太平洋戦争の激化に伴い、サイパン島・ラバウルを経由してブーゲンビル島に送られた。 |