HOME〉Guadalcaanal Guadalcanal Island >2003-08 鬼怒川丸と第3次ソロモン海戦 きぬがわまる ソロモン諸島 |
〈現在も残る鬼怒川丸 当時の現場を方川新一さんは目撃した 2003 8 12 ) |
〈現在のサボ島) 〈河内勝治さん〉 〈現在の鬼怒川丸) (当時の鬼怒川丸) 〈目撃していた方川さん入院中の写真) (鼠輸送にあたった加藤さん) 〈ヴィル村戦争記念博物館で) 〈米軍戦闘機とフランシス〉 |
戦艦「 日米は陸でも海でも、激しい戦闘を展開していた。この第二師団の総攻撃を支援するために、日本は空母4隻の機動部隊を送った。受けて立つアメリカ艦隊と交戦し、空母「ホーネット」を撃沈し空母1隻を大破させた。日本側も空母2隻大破の、損害を受けている。これが「南太平洋海戦」である。 この海戦は、日本艦隊が勝利をおさめた最後の海戦となった。しかし軍部は、「面子」にかけてもガダルカナルを諦めるわけには行かなかった。 この島には港湾施設は存在しないから、沖合で大発に積み替えなければならない。その大発も6隻しかない。これでは日本の一晩の荷揚げ能力は、僅か240トンに過ぎなかった。これは輸送船なら1隻分、駆逐艦なら6隻分である。3万人の兵員一日分の、補給にすぎない計算だ。 第二師団の総攻撃失敗のあとも、11月10日に第38師団司令部と歩兵第288連隊が上陸した。この時も援護のために、海軍が出動している。 今回は米軍の待ち伏せにあい、各艦の足並みが大きく乱れていた。これが、「第3次ソロモン海戦」の前半戦である。米巡洋艦が待ち伏せし、13日午前1時闇の中で壮絶な海戦が開始された。米軍は偵察とレーダーで、日本艦隊の位置を正確に捉えていた。 「比叡」が米艦隊を発見した時、すでに両者の距離は8千メートル、「比叡」は飛行場砲撃用の焼夷弾を装填していたが、米艦発見と同時に砲撃を開始した。初弾は軽巡「アトランタ」の艦橋を直撃したが、その後は敵味方の区別もつかない大乱戦となった。探照燈を照射する「比叡」は軽巡「サンフランシスコ」も大破させた。大きな戦果を挙げた「比叡」であったが、猛烈な砲火を浴び命中弾は80発にもおよんだ。距離が近すぎて、米軍の砲弾が水平に飛んでくる。 「機関室いたんですが、艦は大きく揺れつづけました。そのうち艦橋から命令がこなくなり、艦橋がやられたことが分かりました。操舵室がやられて浸水し、ハッチが閉められたので中の乗組員はそのまま亡くなったんですよ。当然、舵もきかなくなりました」河内勝治 戦艦「比叡」は自らの探照灯によって、米の集中砲撃を受けてしまった。しかもあまりにも距離が近すぎて、主砲も魚雷も用を足さない。舵を真っ先にやられた「比叡」の甲板上は、蜂の巣のようになっていた。 米艦隊も軽巡「アトランタ」「ジュノー」と駆逐艦4隻が、沈没した。「比叡」は4隻の駆逐艦に護られるような形で、舵の修理に全力をあげていたが、翌朝70機のヘンダーソン飛行場からの航空攻撃を受けて動けなくなってしまった。 総員退艦の後、「比叡」はサボ島の沖で駆逐艦の2本の魚雷によって処分された。「比叡」は、太平洋戦争で最初に沈没した「戦艦」となった。戦艦「霧島」も翌日、ほんの数キロ先で「比叡」と同じ運命を辿ることになる。 鬼怒川丸 そして11月14日、11隻の輸送船団が送られた。日本は撃ってでた。第一七軍の、総力をあげた大輸送作戦であった。手持ちの優秀船11隻の全てが、この作戦に当てられた。 しかし11月14日にたちどころに4度の空襲に遭い6隻が沈没、1隻が大破し引き返すなどの大損害を受けた。米軍はこの作戦を事前に探知し、輸送船だけにまとを絞って攻撃したのである。5千名の兵士が海に投げ出され、駆逐艦に拾い上げられた。 無傷だった鬼怒川丸・宏川丸・山浦丸・山月丸の4隻は、何がなんでもたどり着こうとした。揚陸地点のタサファロング沖に到着したのは、15日の夜明け直前であった。揚陸する時間はなかった。全ての輸送船が午前2時40分、音をたてて海岸に乗り上げた。想像するだけで、ぞっとする光景である。 この光景を、タサファロングにいた方川新一は目撃していた。 この有名な「鬼怒川丸」は、現在もその残骸を海岸に残している。戦後、中国人実業家が、船体の鉄板をはがして一儲けを考えた。その実業家はその後、交通事故で死亡したという。島民は「日本軍の祟り」としてこれを恐れたという。 この輸送船4隻を援護するために、戦艦「霧島」,重巡「愛宕」「高雄」らが再び飛行場の艦砲射撃をめざしたが米艦隊の待ち伏せに遭う。戦艦「霧島」が沈没し、艦砲射撃は中止となった。これが第3次ソロモン海戦の後半戦である。 フランシスの運転する四輪駆動車はコカンボナを抜け、西に進む。道の荒れているところが多くなり、車ごと川の中に入るところもある。なるほど、これではタクシーは無理だ。 私は、海岸を捜索した。なにか当時の物が、のこってないだろうかと。1952年、この島は大津波に襲われている。海岸にあったものが一切合財、波に飲まれ流されていった。「なにもなかった」大きな南国の蛙を、数匹見つけただけであった。 この「東京急行・ねずみ輸送」に従事した駆逐艦乗組員の一人に加藤義政さんがいる。彼は、大正8年に現在おすまいの北海道幕別町に生まれた。そして新鋭駆逐艦「大潮」に乗り込んでいた。 彼は昭和18年1月10日の「ねずみ輸送」に、参加している。この日の参加艦艇は、駆逐艦「江風」「黒潮」「初風」「時津風」「嵐」「巻波」「大潮「荒潮」 である。ラバウルで食料を積めた百本のドラム缶を、積んだね。ドラム缶は日本本土から送られたものでね、ロープでつないで島に届ける仕組みだよ」加藤義政 12月3日の第2回ドラム缶輸送は1500本をタサファロングに運んだが、210本が回収されただけであった。 12月7日の第3回ドラム缶輸送は失敗し、11日の第4回目は1200本をタサファロングに持ち込んだが、この時も220本が回収されただけであった。 1月3日は540本1月14日には150本をエスペランスに運び、この日をもってドラム缶輸送は中止されている。 これ以降、日本は米軍に対してそれまでのような攻勢は出来なくなる。第38師団約5千名は上陸はできたが、装備や弾薬等はほとんど揚陸させる事が出来なかった。こうして飛行場を奪回するという作戦は不可能になった。 タサファロング 昭和17年も12月になると、米軍の反撃が活発化してきた。方川新一がタサファロング附近に滞在していたころ、 「ある日、米軍が海から逆上陸して来ました。100名位だと思いますが、夜間たった5、6名で襲撃したんです。撃ちあいになりましたが命を大切にする米軍はさっさと撤退し、われわれはアメリカ兵の残した食料を手に入れました。なんでも缶詰でした。パンも缶詰です。コンビーフなどを、生まれて初めて食べましたね」 ガダルカナルで結果的に、日本軍は上陸した兵力31400人のうち、21000人の戦死、戦病死者を出した。戦闘で亡くなったのは5・6千人で、大半は病死と餓死であった。 「大きなハエがね、真っ黒になるまでたかりますが、弱った兵士は払うことも出来ず、生きているうちからウジが湧き皮膚をはっているんです。軍医は、ウジは膿を吸い取ってくれるので取るなと言ったのですがね。死にそうな兵隊は、生きているうちから肉が腐ったような死臭がするんです。 死後は、体がむくみゴムマリのようになります。そして、腹から腐敗し毎日のスコールに洗われ、直ぐに白骨化していきます。仲間が死ぬと、指を切り落として焼きました。 残った骨を木の葉に包んで、日本に持って帰ろうとしていました。でもね、そのうち数が多すぎて、誰のか分からなくなったんですよ。そして、自分も生きていくのがやっとになっていったんです」方川新一 鬼怒川丸を西に進むと、直ぐにタサファロングである。軍の重要拠点である。広広とした草原があり、快適に生活が出来そうなところである。 あたりは風がなく、熱気でムンムンしている。あまりの、ジャングルに驚いた。ブッシュをかき分け、並んでいる兵器を見る。胴体がふたつあるP三八は、山本五十六機を撃墜した事で名高い。 私は、グラマンワイルドキャットが一番恐ろしかった。翼には、機関砲を取り付ける部分がしっかりと残っている。ここから機関砲を撃ちまくり、日本兵をなぎ倒したかと思うと居たたまれない気持になった。 |
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