HOME〉Guadalcaanal Guadalcanal Island >2003-08 第二師団と丸山道 まるやまどう ソロモン諸島 |
〈タサファロンガ周辺の日本軍撤退路 2003 8 12 ) |
〈一木支隊の慰霊碑) (島に残る日本軍の15センチ砲 殆ど使用されなかった) 〈丸山道の入り口のモニュメント) (ボハ集落の慰霊碑。日本軍の車両が残る) 〈ボハ村の長ナナさんと) 〈ナナさん。いでたちに圧倒された) 〈勝股大尉について語るフランシス〉 |
その後、ガダルカナルには仙台の第二師団(1万4千名)と東海の第三八師団が上陸したが、結局は一木支隊と同じ運命を辿っていった。9月15日第一七軍司令部は川口支隊に、アウステン山を迂回しマタニカウ川西側に退却する命令を出した。これは太平洋戦争初の、退却命令であった。この命令によって熊部隊(一木支隊)の生き残りの兵士が「死の行軍」をし、マタニカウ川河口まで退却出来たのは10月1日頃である。 この頃第一七軍は第二師団を、東部ニューギニア作戦からガダルカナル島に転用するよう大本営に申し入れた。こうして10月1日から17日の間に、駆逐艦などで丸山中将の第二師団と第三八師団、百武中将の第一七軍司令部が、タサファロング海岸に上陸してきた。丸山師団長、百武第一七軍司令官も上陸し、コカンボナに戦闘司令所を設置した。 第二師団は、一週間分の食料だけを持参し上陸した。上陸したタサファロング海岸では、上陸部隊にボロボロの衣服の飢えた兵隊が群がり、上陸物資の手伝いを装いながら、食料なども持ち去って姿を消していった。 第二師団の上陸作戦 日本軍は、物資と人員の上陸に必死であった。10月11日反撃開始以降初めて野戦重砲6門を、タサファロングへ揚陸させる事に成功した。アメリカ軍も、必死に反撃を開始している。この輸送作戦を支援した重巡「古鷹」と駆逐艦「吹雪」が沈没し、旗艦の重巡「青葉」が中破した。これが「サボ島沖夜戦」である。 これを知った山本五十六連合艦隊司令長官は、第二師団の輸送を成功させるために自ら旗艦「大和」に乗り、米軍基地への艦砲射撃を決意した。さすがに栗田中将がこれを押しとどめ、栗田中将が戦艦「金剛」「榛名」でこの作戦のために飛行場の沖合に突入することになった。 午前0時過ぎに2隻は180度反転し、再びもと来たコースに入り砲撃を再開した。36センチ砲弾を実に918発撃ち込んで、米軍の多数の航空機や資材等を破壊した。それは、壮絶な風景であったことだろう。 度重なる海戦は日米互角に見えるが制空権は完全に米軍の手にあり、この日の輸送も揚陸途中で失敗し、火砲も38門しか揚陸できなかったのである。 米軍は、予備の滑走路を既に完成させ、燃えやすい燃料類も地下に埋めていた。これを知った日本軍は10月14日再び重巡「鳥海」と「衣笠」が、飛行場に艦砲射撃で20センチ砲弾753発を撃ち込んだ。 その隙に輸送船6隻が、揚陸を強行したのである。全船無事にタサファロングへ入泊したが、揚陸作業中の翌朝から米軍の攻撃をうけている。こうした連日の日米の戦闘は、激烈であった。太平洋戦争最大の激戦が続いていた。 丸山道 10月15日から16日にかけて、上陸した第二師団の兵士は工兵隊に切り開かれたジャングルの道(丸山道)をヘンダーソン飛行場に向けて前進を始めた。こうして辻政信参謀が建てた無謀な作戦が、再び始まった。一列縦隊で1万人の兵が無言のまま、延々に続いたという。今度は、未開のジャングルを人力で切り開いて道を造り、ジャングルの山側からヘンダーソン飛行場を奪い返そうという作戦である。 10月17日にも、タサファロングへ揚陸した物資の多数が、米軍機と艦砲射撃で焼失してしまい、食料も弾薬も極端に不足するようになった。日本は計画した人員はほとんど(約1万5千名)を上陸させたが、食料は約半数(10日分程度)、弾薬は約2割程度しか揚陸出来ていなかったわけである。 兵隊の進んだ密林の小道「丸山道」は、難渋を極めた。予定地点にたどり着かない部隊が続出し、22日の総攻撃の予定が翌23日に延期となった。 ジャングルの行軍は、進むにつれて人力での輸送が困難になり、分解して担いで運べる小型の大砲なども途中で捨てられていった。 この意見は、司令部の逆鱗に触れた。却下された上に「攻勢意欲なし」とみなされて、川口少将は指揮官を解任されてしまう。解任した張本人は、辻政信参謀と言われている。 このように日本軍では積極的な意見だけが評価され、慎重論は「消極論」とみなされて更迭の理由とされる事が多かったのである。威勢のいい論だけが評価され、それが更に無謀な作戦に繋がっていった。 この時原田昌治は、いったんは「丸山道」を歩きかけていたが、マラリアが悪化し水無川の自給自足の野戦病院に収容されていく。斎藤清は、 斎藤清の帰還に、動けないほど衰弱していた駿河まさおはとても喜んでくれた。二人は、故郷富良野のことなどを語ったという。しかし、駿河まさおの様態は好転せず、後部の野戦病院に後退して行った。 私はこの第二師団の総攻撃のためにつくられ、丸山道を知りたかった。入り口はコカンボナ村(現地ではカカボナ)を挟んで西側の水無川周辺からのものと、東側のホワイトリバー(勇川)周辺からの二本があり、この二本の道が山の上で合流する形になっている。勿論道そのものは、現在ジャングルの中に消滅している。日本の「入り口」としての記念碑は、水無川エリアにあった。 ナナさんが長をしている、ポハ集落に近い。慰霊碑は草の中に埋もれ、たどり着いた私たちは車から降りる事もできず、またフランシスの案内がなければ、到達することも出来ない代物であった。草の中からもなんとなく、山の稜線が続いているのが感じ取れる。 もう一本の入り口「ホワイトリバー地域」には、二度出かけた。ホテルの前のバス停から乗り合いバスに乗れば、10分足らずで到着する距離である。海岸沿いの、バスの終点がホワイトリバーの河口であった。 「この辺りはね、歴史的に有名なところなんだよ」と話すと、 カツマタポイント こうして昭和17年10月24日、第二師団が飛行場南側から総攻撃を敢行した。激しい雨に、夜からの突入になった。殆どの部隊は敵がどこに居るかはもちろん、自分の部隊がどこにいるのかさえ分からなかったという。雨の密林地帯を手探りで前進したという。 25日夜再び攻撃をするが、烈しい銃砲火に再び総攻撃は失敗する。一木支隊・川口支隊に続く三度目の壊滅であった。 第二師団の兵士のうち実際に丸山道を進んだのは、5800名という説もあるが、狭い一本道を喘ぎながら歩き、「ムカデ高地」を中心に突撃を敢行した。既に触れた勝股大尉の話は、有名である。勝股治郎は何度もガダルカナルを訪問しており、フランシスとも親交が厚いようだ。勝股大尉のことになると、フランシスは珍しく熱弁を振るった。ムカデ高地には、第二師団の記念碑があった。故郷仙台から6千キロの果てに立つ慰霊碑は、悲しい。 |
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