HOME〉Guadalcaanal                                             Guadalcanal Island >2003-08



            
   死のアウステン山迂回ルート
                            マタニカウ川


  
ソロモン諸島                       
    
  
                                                                          
 
 
     〈アウステン山 目立たない。ベチガマから)

 
        (ガイドのフランシスとピータージュニア)
  
  
  
    〈NHK「兵士たちの戦争」で語る斎藤さん)
 
  
         〈高校生に語る方川さん 2008 12 )


   
           〈当時の方川新一さん)

  
      〈NHK「兵士たちの戦争」で語る原田さん〉

    
          〈金谷新三郎さん〉
 
        
          
   〈当時の金谷さん〉

 
             〈マタニカウ川)  


 
    〈マタニカウ川の河口で破壊された日本軍戦車) 
     
    
           〈武田栄治さん) 

        
 
  
 総攻撃に失敗した川口支隊は、海岸を避けてアウステン山を東から西へ迂回し、飛行場の西側にあたるマタニカウ川河口に集結することとなった。その迂回命令は兵士にとって、「死の行軍」を意味していた。

私は、この道を知りたかった。それには、まずその「アウステン山」の山頂に上がるのが一番である。アウステン山は英語読みになると、「マウント オースチン」となる。
 標高僅か410メートルであるが、山頂からはヘンダーソン飛行場を中心とする周辺が手にとるように分かる。山頂に向かう道の途中でフランシスは、地元の青年を車に拾った。
「彼は、ピータージュニア。この山の持ち主の息子さんですよ。そうそう彼は映画俳優でね、例のシンレッドラインに地元サポーター兼俳として出演しているんですよ」 山頂は涼しい風が吹きぬけ、下界の暑さが嘘のように快適であった。しかし、眼下に広がる密林は60年前地獄であった。

ジャングルの中は、むせ返るような暑さであったろう。地図もなく、生き残りの兵士たちはあるものは一団となりあるものは一人ぼっちで進んだ。獣道さえない、密林のジャングルである。蚊が常時まとわりつき兵士から血を吸い、マラリア原虫を産み付けていった。蚊は、日中も我々を襲ってくる。日本から持参した防虫用品は、全く用を成さなかった。

 山頂には、日本軍の観測所の跡があった。ここから、アメリカの動きを観測していた時期があったのだろう。しかし、おめおめと自由に観測させているアメリカではなかった。激しい砲撃・空爆を受けたに違いない。

斎藤清はひとりで、後退していく兵士の小道を辿ることになった。その道で、見覚えのある顔と出会う。
「おいっ、清さんじゃないか」
「あっ、まさおさんじゃないか」

まさおさんとは、同じ富良野市出身の駿河まさお(第二梯団)であった。この時はそのまま別れてしまうが、再会する時がめぐってくる。途中で斎藤清は、アウステン山を迂回する集結地が定められたことを知る。

「私は、21日間かかったんですよ。なんとなく踏みあとがついていましたが、殆ど一人ぼっちでしたよ。途中毒草を口にしてしまい、倒れたこともありました。後半は、死者が大勢倒れていました。誰も他人のことなど、かまっていられないんです。夜になると、自決する手榴弾の音も聞こえましたね」
ふらふらになり、集結地に辿りつく。

「集結地に着いたら、一握りの米だけ貰いました。うっかり海水で炊いてしまい、塩辛くて食べることが出来なかったんです」

食料は、自分で調達しなければならない。
「川魚を手榴弾で採って、生で頭から食べていましたよ。ある日、辻政信参謀がほかほかの白米を食べているのを見ました。

駿河さんもたどり着いたんですよ、27日間かかったと言っていました。その時もうすでに、彼は相当弱っていました」

方川新一の場合は、一旦タイボ岬方面に撤退したあと、この命令を知った。動けない負傷兵は、途中で置き去りにされ、自決用の手りゅう弾が渡されている。飢餓・マラリア・デング熱のため、兵士は次々とたおれていった。重い物は、次々に捨てられていった。一週間ほどたち、まず鉄かぶとが捨てられ、続いて銃が捨てられた。

「銃は、小隊単位で穴を掘り、埋めました」方川新一
飯盒・水筒・帯刀だけを持って、兵は進んだ。方川新一は、寄せ書きされた日の丸や千人針をお守りとして持ちつづけた。

ジャングルに入ると塩が手に入らず、とたんに体調が悪くなってきた。水を浄化する浄化剤もこときれ、生水を飲むしかない。

「全員が下痢をしていました。仕舞いには、便が垂れ流しになるんです。元気のあるものは川で洗う事が出来ますが、力のないものはそれが出来ずはえがたかっていました。私たちの小隊長は歩けなくなり、担架に乗せられたのです。すると小隊長は兵隊たちに、迷惑は掛けられないとピストルで自分ののどを撃って自殺してしまいました。若い兵隊たちが、泣いていましたね。
 動けなくなった兵隊は、せめて最後に水を腹一杯飲みたいと言うんです。待ってろ。今汲んで来てやるから。と言いつつもそれが出来ずに、そのまま兵隊をジャングルに置いてきたこともあったんです」

絶望し、更に他の兵士に迷惑をかけたくない者は、拳銃で次々と自決していった。ジャングル中に、パーンと自決のピストル音が幾度も響いたという。
10日間ほどは、他の部隊とも会いませんでしたが、後半は白骨化した死体を数多く見ました。あるとき、川を見つけ必死に水を飲みました。這いつくばるように飲み終わりほっとして、横を見ると私と同じ水を飲む姿勢の死体がありました。下半身は白骨化していましたよ。衣服はボロボロで靴は真っ先にダメになり、裸足の時が多かったんですよ。私も、アメリカ兵のものを拾って履いていました」

こうして、方川新一は105日ころマタニカウ川河口付近にたどり着いた。
「海岸につくとほっとしました。塩があります。ヤシガニを良く食べました。毎晩岸に上がってくるんですよ」

ここで、熊大隊は川口支隊から第二師団の配属に変更されたが、熊大隊で動けるものは100名足らずになっていた。
 原田昌治の場合は、途中で木の芽・木の根などで命をつないでいた。ある日、谷川で魚を採っている兵士に出会った。
「手榴弾を川のよどみに投げ込んだところ、牛のようなものが浮いてきたんです」
 それは、ワニであった。周囲の兵隊達が、これを小型のスコップで殴り捕獲した。

 串焼きにして食べたが、空っぽの胃袋にはシヨックだったらしく、その直後から激しい下痢に苦しめられた。しかし、貴重な淡白源は飯盒につめられた。集結地に到着したあとも、下痢は続きマラリアも併発していった。

現在北海道網走市にお住まいの金谷新三郎さんは、第二次総攻撃のあと、70名くらいの集団で、ジャングルを越えました。途中で、20名くらいは亡くなったと思います。最後に水を飲ませてくれという兵隊が多く、川に行って飲んだまま死んだ兵隊が、多かったね。
 先に歩く兵士が食べられそうな木の実を食べ尽くしてしまってね、食うものがなかったんですよ。目的地にたどり着いたら、食うものがあってね。飯を炊いていきなり食べた奴は、本当に死んでいったね。僕たちは塩をいれておかゆのようにして食べたから、大丈夫だったよ。
 衛生兵だから軍医と一緒で、塩なども持っていたんですよ。私はね、手りゅう弾で魚をとっては食べていたからね、比較的元気だったね。やっぱり、塩が大切だよ」


   マタニカウ川河口

一木支隊の兵士達がたどり着いたマタニカウ川の河口地区は、現在の中心都市ホニアラの東側の住宅地にあたる。現在多くの住民が、素朴な家屋を並べている。川は大きく、ゴミであふれている。
 海に注ぐ河口には、金属でできた平たいものが海面から顔を出している。

 第二師団の、戦車の残骸である。1023日の第二師団の総攻撃の日に、待ち伏せしていた米軍の集中砲火を浴びて、壊滅したものである。 独立戦車中隊の戦車数台が僅かに頭だけを残し、現在も海底に頓挫しているわけだ。ゴミだらけの海岸に残された戦車の残骸は、寂寥感に満ちていた。這うようにここにたどり着いた兵士たちは、どんな気持でいたのだろうか。 

  武田栄治の場合

 実は、川口支隊と一木支隊の生き残りの兵士全員が、このマタニカウ川河口を目指したわけではなかった。軍の組織が崩壊した時、兵士たちに全ての命令が伝わるとは限らない。

「私は、そんな命令など知りませんでした」そう話す北海道帯広市の武田栄治さんも、やはり大正7年生まれであった。
 彼は仙台市で生まれたあと、少年時代に現在の北海道帯広市に移っている。地元の精糖会社で働いていたが、歩兵第27連隊に入隊し、一木支隊では方川新一のとなりにあたる機関銃中隊第二小隊に配属されていた。

第二梯団となった武田栄治は、この913日からの第二回総攻撃に参加していた。方川新一とは違い、本隊の攻撃ルートに沿って南東から飛行場奪取作戦に参加した。

「突撃といっても、合図も何もありません、大混乱です。機関銃を分解して運んだんですよ。弾丸を背負子に背負っていきました。でもね、攻撃の時は真っ暗の中前の人間の腰にしがみついて、短剣ひとつで突撃したんです。せっかく運んだ機関銃を、使わずにですよ。真っ暗の中の突撃です。短剣一つで、どうするんですか。 
 アメリカ軍の機関銃が凄いんですよ、前になんか進めませんよ。明るくなると、飛行機と艦砲射撃が来ました。飛行機がやってきて翼で合図すると、そこに砲弾が飛んでくるようになってました」

その後部隊の統率は、崩壊した。部隊はバラバラになり、武田栄治は仙台出身の兵士2名と計3名でジャングルの中を後退した。

「上陸地点のタイボ岬のあたりまで、後退したのでしょうか。とにかく、もうバラバラです。ジャングルの中に食べ物を求めて、ただただ生きていました」勿論補給などはなく、各自が飢餓と戦っていく。

「マラリアにもなりました。運よく衛生兵とめぐり合い、彼が面倒を見てくれました」
アメリカ軍の攻撃も、執拗だった。
「飛行機が日本兵を発見すると、それがたった一人であっても徹底的に攻撃してくるんです。食べ物は椰子の実が中心でした。トカゲも食べました。大きなトカゲが、死んだ兵隊の肉を食べているのも見ました」

私は、ここで意外な真実を知った。
「私たちは、衣服は朽ち果てて上半身は裸でした。飯盒と短剣だけを、持っていました。殆どの兵隊は、小銃も拳銃も持っていません。ジャングルの中では、服も靴も階級もなにもないんです。みな階級章を、捨てるんです」

軍隊組織の崩壊したジャングル内では、高い階級はかえって危険だというのだ。階級が高いと、敗戦の責任を兵士たちに糾弾された。
「おまえのおかげで、俺たちはこんな目にあってるんだ」と。
「そしてね、階級の高いものほど自決していったね」

武田栄治は、その手榴弾の自爆の音を聞いたという。
「兵隊ひとりひとりが、孤立していました。食べ物をめぐって、兵士が兵士を襲うんです。食べ物を手に入れる時も食べる時も、ひとりでなければ危険です。うっかり、食べ物を他人に見つかると危険ですよ。口を動かすのを手で隠して、他人に見られないように食べるんですよ」他の兵隊に殺された兵隊も、見たという。

「人の肉は食べずに済みました。人肉を食べた話も聞きました」ジャングルの中は、鬼畜の世界に変っていた。

「ある日米軍が日本の捕虜を連れて、放送を流しに来ました。もちろん日本語で、私たちに訴えるんです。日本は絶対に勝てないし、捕虜になればちゃんと食事がもらえるとか。捕虜になればよかったんですよ。でもね、恐ろしくてなれなかった。捕虜になると、日本に帰った後国賊になるんですから」

いつかは日本の大軍が、きてくれると考えたのだろうか。
「そんなこと、全然思いませんでしたよ。空も海も陸も、完全にアメリカが支配していたからね。アメリカは豊かでね、土日は砲撃をしないんだよ。アメリカは戦場でも、休日があるんだ。ダンス音楽を、流したりしていたね。それで、曜日がわかったくらいだから」

武田栄治は、月日も数えられなくなった。いったい、何ヶ月経ったのだろうか。ある日、日本の兵が上陸してきて、
「天皇陛下から、撤退の命令が下った。駆逐艦がくるから、乗るように」という命令だったという。

日本が天皇列席の御前会議で撤退を決定したのは、昭和171231日であるから、この命令を受けたのは既に昭和18年に入っていたと考えられる。
 撤退の日は、数十人の兵士が集まっただけであった。駆逐艦一隻だけが現れた。自力で歩けないものには、やはり手榴弾が手渡された。

「今じゃどこの島に後退したのかも、覚えていません。広島に帰国したのは、覚えています。旭川の陸軍病院に入り退院したあと、除隊し帯広に戻りました」

そして、体力が回復すると再び召集令状がやってきた。本土決戦にそなえ、千葉県九十九里浜に送られた。日本の軍隊は、兵隊をどこまでも酷使する。なぜなら、ハガキ一枚でいくらでもかき集められるのだから。

   
        

  
    〈アウステン山から、一木支隊の兵士が迂回したルートを見る。この密林の中にいったいどれくらいの兵士が倒れたことか) 

                         BEFORE〈〈    〉〉NEXT

                     
inserted by FC2 system