HOME〉Guadalcaanal Guadalcanal Island >2003-08 死のアウステン山迂回ルート マタニカウ川 ソロモン諸島 |
|
〈アウステン山 目立たない。ベチガマから) (ガイドのフランシスとピータージュニア) 〈NHK「兵士たちの戦争」で語る斎藤さん) 〈高校生に語る方川さん 2008 12 ) 〈当時の方川新一さん) 〈NHK「兵士たちの戦争」で語る原田さん〉 〈金谷新三郎さん〉 〈当時の金谷さん〉 〈マタニカウ川) 〈マタニカウ川の河口で破壊された日本軍戦車) 〈武田栄治さん) |
総攻撃に失敗した川口支隊は、海岸を避けてアウステン山を東から西へ迂回し、飛行場の西側にあたるマタニカウ川河口に集結することとなった。その迂回命令は兵士にとって、「死の行軍」を意味していた。 私は、この道を知りたかった。それには、まずその「アウステン山」の山頂に上がるのが一番である。アウステン山は英語読みになると、「マウント オースチン」となる。 ジャングルの中は、むせ返るような暑さであったろう。地図もなく、生き残りの兵士たちはあるものは一団となりあるものは一人ぼっちで進んだ。獣道さえない、密林のジャングルである。蚊が常時まとわりつき兵士から血を吸い、マラリア原虫を産み付けていった。蚊は、日中も我々を襲ってくる。日本から持参した防虫用品は、全く用を成さなかった。 斎藤清はひとりで、後退していく兵士の小道を辿ることになった。その道で、見覚えのある顔と出会う。 まさおさんとは、同じ富良野市出身の駿河まさお(第二梯団)であった。この時はそのまま別れてしまうが、再会する時がめぐってくる。途中で斎藤清は、アウステン山を迂回する集結地が定められたことを知る。 「私は、21日間かかったんですよ。なんとなく踏みあとがついていましたが、殆ど一人ぼっちでしたよ。途中毒草を口にしてしまい、倒れたこともありました。後半は、死者が大勢倒れていました。誰も他人のことなど、かまっていられないんです。夜になると、自決する手榴弾の音も聞こえましたね」 「集結地に着いたら、一握りの米だけ貰いました。うっかり海水で炊いてしまい、塩辛くて食べることが出来なかったんです」 食料は、自分で調達しなければならない。 駿河さんもたどり着いたんですよ、27日間かかったと言っていました。その時もうすでに、彼は相当弱っていました」 方川新一の場合は、一旦タイボ岬方面に撤退したあと、この命令を知った。動けない負傷兵は、途中で置き去りにされ、自決用の手りゅう弾が渡されている。飢餓・マラリア・デング熱のため、兵士は次々とたおれていった。重い物は、次々に捨てられていった。一週間ほどたち、まず鉄かぶとが捨てられ、続いて銃が捨てられた。 「銃は、小隊単位で穴を掘り、埋めました」方川新一 ジャングルに入ると塩が手に入らず、とたんに体調が悪くなってきた。水を浄化する浄化剤もこときれ、生水を飲むしかない。 「全員が下痢をしていました。仕舞いには、便が垂れ流しになるんです。元気のあるものは川で洗う事が出来ますが、力のないものはそれが出来ずはえがたかっていました。私たちの小隊長は歩けなくなり、担架に乗せられたのです。すると小隊長は兵隊たちに、迷惑は掛けられないとピストルで自分ののどを撃って自殺してしまいました。若い兵隊たちが、泣いていましたね。 絶望し、更に他の兵士に迷惑をかけたくない者は、拳銃で次々と自決していった。ジャングル中に、パーンと自決のピストル音が幾度も響いたという。 こうして、方川新一は10月5日ころマタニカウ川河口付近にたどり着いた。 ここで、熊大隊は川口支隊から第二師団の配属に変更されたが、熊大隊で動けるものは100名足らずになっていた。 現在北海道網走市にお住まいの金谷新三郎さんは、第二次総攻撃のあと、「70名くらいの集団で、ジャングルを越えました。途中で、20名くらいは亡くなったと思います。最後に水を飲ませてくれという兵隊が多く、川に行って飲んだまま死んだ兵隊が、多かったね。 一木支隊の兵士達がたどり着いたマタニカウ川の河口地区は、現在の中心都市ホニアラの東側の住宅地にあたる。現在多くの住民が、素朴な家屋を並べている。川は大きく、ゴミであふれている。 「私は、そんな命令など知りませんでした」そう話す北海道帯広市の武田栄治さんも、やはり大正7年生まれであった。 第二梯団となった武田栄治は、この9月13日からの第二回総攻撃に参加していた。方川新一とは違い、本隊の攻撃ルートに沿って南東から飛行場奪取作戦に参加した。 「突撃といっても、合図も何もありません、大混乱です。機関銃を分解して運んだんですよ。弾丸を背負子に背負っていきました。でもね、攻撃の時は真っ暗の中前の人間の腰にしがみついて、短剣ひとつで突撃したんです。せっかく運んだ機関銃を、使わずにですよ。真っ暗の中の突撃です。短剣一つで、どうするんですか。 その後部隊の統率は、崩壊した。部隊はバラバラになり、武田栄治は仙台出身の兵士2名と計3名でジャングルの中を後退した。 「上陸地点のタイボ岬のあたりまで、後退したのでしょうか。とにかく、もうバラバラです。ジャングルの中に食べ物を求めて、ただただ生きていました」勿論補給などはなく、各自が飢餓と戦っていく。 私は、ここで意外な真実を知った。 軍隊組織の崩壊したジャングル内では、高い階級はかえって危険だというのだ。階級が高いと、敗戦の責任を兵士たちに糾弾された。 武田栄治は、その手榴弾の自爆の音を聞いたという。 「人の肉は食べずに済みました。人肉を食べた話も聞きました」ジャングルの中は、鬼畜の世界に変っていた。 「ある日米軍が日本の捕虜を連れて、放送を流しに来ました。もちろん日本語で、私たちに訴えるんです。日本は絶対に勝てないし、捕虜になればちゃんと食事がもらえるとか。捕虜になればよかったんですよ。でもね、恐ろしくてなれなかった。捕虜になると、日本に帰った後国賊になるんですから」 いつかは日本の大軍が、きてくれると考えたのだろうか。 武田栄治は、月日も数えられなくなった。いったい、何ヶ月経ったのだろうか。ある日、日本の兵が上陸してきて、 日本が天皇列席の御前会議で撤退を決定したのは、昭和17年12月31日であるから、この命令を受けたのは既に昭和18年に入っていたと考えられる。 「今じゃどこの島に後退したのかも、覚えていません。広島に帰国したのは、覚えています。旭川の陸軍病院に入り退院したあと、除隊し帯広に戻りました」 そして、体力が回復すると再び召集令状がやってきた。本土決戦にそなえ、千葉県九十九里浜に送られた。日本の軍隊は、兵隊をどこまでも酷使する。なぜなら、ハガキ一枚でいくらでもかき集められるのだから。 |
〈アウステン山から、一木支隊の兵士が迂回したルートを見る。この密林の中にいったいどれくらいの兵士が倒れたことか) BEFORE〈〈 〉〉NEXT |