HOME〉Guadalcaanal                                             Guadalcanal Island >2003-08



            
     第2梯団とムカデ高地
                            第二次総攻撃の失敗


  
ソロモン諸島                       
    
    
            〈体験を語る方川新一さん。2008 12  右は方川さんが撃っていた機関銃。方川新一さんより〉
                                                 
                   
 
 
         〈中央が方川新一さん)

  
         (一木支隊第二梯団が進んだ海岸)
  
  
          〈原田昌治さん)
 
 
 〈イル川直前のレッドビーチ。再び日本軍はここで壊滅した〉


 
     〈日本軍が目指したヘンダーソン飛行場)

 
  
 
       〈原田さんたちが突入したムカデ高地〉

 
    〈現在のムカデ高地。殆ど変わっていない〉

  
         
 〈これも当時のムカデ高地〉

  
     〈ムカデ高地に残る第2師団の慰霊碑。
           後に第2師団もここで死闘を経験する)  
  
 旭智輝・斎藤清たち第一梯団の生き残り兵は、第二梯団の到着を待ちわびた。そして828日から連日、川口支隊を含め計約4千名の将兵が上陸してきた。

斎藤清は、駆逐艦が来ると折りたたみ式舟艇を海に出し、到着した兵士を迎えに向かった。方川新一たち一木支隊第二梯団(1100名)は、実に三度も上陸を前に途中で引き返している。
 上陸は夜間でなければ、アメリカ軍機の餌食になってしまう。822日、米軍機の襲来にあい第二梯団は最初の反転をし、上陸は24日に延期された。

その824日、この日は「第2次ソロモン海戦」がおこっている。日本は空母「サラトガ」「エンタープライズ」の米機動部隊がガダルカナル近海にいることを知り、空母「翔鶴」「瑞鶴」「龍譲」の南雲機動部隊をトラック島から南下させた。
 24日、この南雲艦隊から離れた空母「龍驤」は、ヘンダーソン基地を爆撃したが米軍も攻撃機を発進させた。1350分「サラトガ」攻撃隊は、「龍驤」を発見し魚雷一本が命中した。「龍驤」は航行不能になり、18時過ぎに沈没している。その空母「龍驤」には、ミッドウェーで空母「蒼龍」に乗り生還した佐藤利彦が乗っていた。

「完全に龍驤は、オトリにされたんですよ。単独で航行していました。最後は、駆逐艦さえ姿を消していたんですよ」

こうして佐藤利彦は、再び海に投げ出された。日本も空母「エンタープライズ」に爆弾3発を命中させたが、米軍は大火災にもかかわらず穴のあいた飛行甲板を一時間で補修し、艦載機を収めた後戦域を離れていった。
 825日の第二梯団の上陸も、駆逐艦「睦月」の撃沈などによって再び延期となった。こうして三度の延期を、繰返すこととなる。この日から日本軍は、速度の遅い輸送船での輸送を諦めて駆逐艦による「鼠」(東京急行)輸送へ切り替えることになった。こうして826日に方川新一は、ショートランド島で駆逐艦に乗り換え、28日にタイボ岬に上陸した。方川新一は、駆逐艦「夕立」に乗船していた。駆逐艦一隻につき搭載できるのは、兵員は150名、物資は100トンが限界とされているから、車両や重火器の搭載は不可能である。

夜中にガダルカナル島に到着し、小型艦艇を往復させて上陸をする。この日の第一次鼠輸送は、駆逐艦「朝霧」の沈没等により失敗とされているが、方川新一は無事上陸している。

方川新一の部隊は、すぐに行軍を開始した。この時上陸したタイボ岬周辺には、斎藤清たち生き残った第一梯団の兵士がいた。彼等の衣服は、既にボロボロになっていた。

この日の友軍の上陸など事前に知るはずもなく、部隊の上陸を見ると敵味方の判断がつかず、当初はジャングルに逃げ込んでいる。上陸した兵達は彼等の口から、どうやら第一梯団が壊滅したことを知った。
「仇を討とう」という気持が、兵士たちに芽生えていく。しかし方川新一たちには、敗戦の情報を頭の中で整理する暇などはなかった。

ジャングルと海岸を出入りする、行軍が始まった。「指揮官も全員が徒歩でした。車両はもちろん馬もいません。一メートル四方の布だけが、夜露を凌ぎそして毛布代わりだったのです」方川新一

   第二次総攻撃

 913日から14日にかけて、熊大隊と名づけられた第二梯団は、次々と上陸してきた川口支隊(第三五旅団川口清健少将)4000名の指揮下に入り合計6200の兵力で、飛行場奪回作戦へ参加することになった。熊大隊のうち658名がこの作戦に参加し、指揮官は水野鋭士少佐である。

川口隊長は、戦死した一木隊長とは違う作戦を取る。海岸地帯を避け、山に迂回して攻撃する作戦である。ルートは違うものの、「白兵夜襲」には変化がなかった。こうして再び、自殺の作戦が始まった。

方川新一の部隊は9日の夜9時ころから、行動を開始した。
「真っ暗なジャングルを、進みました。棘の木のツルが体にまとわりつき、薄い軍服を突き抜けて肉に食い込むんです。私たちは機関銃部隊ですから、機関銃を解体して担ぐんです。機関銃の脚部だけで、29キロもあるんですよ。銃身の部分も約30キロです。一台の機関銃につき900発ずつ入った箱を、四人で四箱合計3600発運びました。始めから食べ物は節約し、住民が避難してしまっている集落で食べ物を手に入れたり、親指ほどの野性のサツマイモを食べたりしました」方川新一

現在北海道旭川市に住む原田昌冶(まさはる)さんは、第三中隊の兵士として、829日にタイボ岬に上陸している。彼も昼間は眠り、夜の行軍を続けている。
「歩きながら、眠りましたね。光る木の皮を衣服につけて、前を行く兵隊を見失わないようにしていました」

九八式銃を改良した、九九式銃を手にしていた。
「銃身が短く、扱いやすくなっていました」
 ジャングルの中を、ひっそりと進む。
「銃には布を巻きつけて、カチャカチャと音がしないように進むんです。途中、空き缶のついたひも細工にふれて音が鳴りました。人が逃げていきました」

現地住民たちは、すでに連合軍側の支援に動いていた。更に日本軍は制空権も失っていた。ニューブリテン島ラバウル基地からは、はるか千キロの距離がある。航続距離の長い零戦でさえ、ガダルカナル上空には15分しかいられない。

912日夜、第一次夜間攻撃が行われたが、合図の信号弾も判明せず、時計だけを頼りに各隊がばらばらに突撃した統制のとれないものであった。
 方川新一の熊大隊本隊は、もっとも海岸よりの壊滅した第一梯団とほぼ同じルートを進み、「アリゲータークリーク」と呼ばれる「中川」を、胸まで漬かって渡河した。周辺は、文字通りワニの生息地である。
「今思うと、ワニに引きずり込まれた兵士もいたそうです」方川新一

水野大隊は、鉄条網を前に前進を阻止され突撃できなかった。方川新一は、機関銃部隊であったから幸運であった。重い機関銃を解体して搬送しなければならないが、無謀な白兵突撃だけはしなくてすむからだ。

両翼に分かれた機関銃部隊が、歩兵(600名)を援護射撃する隊形を取り、米軍陣地に向き合った。
「機関銃の砲身が、赤く光るまで撃ちまくりました。鉄条網があって、アメリカは日本兵が立ち往生すると撃ってくるんです。日本軍にはなかった曳光弾を、使っていました。弾丸が光っていますから、命中度も高いのです。夜襲を仕掛けても、照明弾を使い昼間のように明るく照らされました。結果的に、突撃など出来なかったんです。あまりにも、敵の砲火が激しいのです。我々の数十倍の砲火ですよ。撃たないほうがいいんです。こちらが撃つと居場所を、知られてしまうのですから。夜があけ明るくなると、ゴーゴーと音がしました。シャーマン戦車です。砲身から火を放っています、火炎放射器ですよ。しかも水陸両用です。 
 撤退命令が出ました。隣の仲間が、もがいていました。負傷した兵士は、置き去りにされたのですよ。今思うとジャングルには集音マイクが設置されていて、我々が近づくのをアメリカ軍は、分かっていたのですよ」方川新一

原田昌冶も川口支隊の右翼隊として、草原地帯で総攻撃に参加していた。草原の入り口の荷物をおき、毒ガスマスクと乾パンだけを持って突撃した。
「周りの兵士が、どんどん死んで行きました。そのうち、夜が明けてきたんです。匍匐して後退していく時は、怖かったですね。ひょいと振り返ると木の上に狙撃兵がいて、上からこっちを狙い撃ちしているんですから」原田昌冶

斎藤清も、この二回目の川口支隊総攻撃に参加している。
「途中海岸で、夜光羅針計を拾い夜でも方向だけはわかるようになりました。明るくなると、米軍の敷設した色とりどりの電線のたばやマイクを見つけました。そして草原にたどり着いたんです。蔵元大隊長に直接言われました。だれか距離を測ってきてくれんかと。自分が行きますと言いました。足の巾で距離を測ったんです」

913日、夜の総攻撃が始まった。
「命令なんてありません。なんとなく100名ほどで、ほふく前進しました。鉄条網をくぐりぬけると、待ってましたとばかりに機関銃を撃ってきます。照明弾が上がっているうちは、絶対に動けません。暗くなると必死で進むんです。

すると、暗闇の中から必死で叫んでいる米兵の声がすぐそこに聞こえるんです。よし突撃するぞと思い、あたりを見回すと本当に誰も居ないんです。自分ひとりしか生きてないんです。進んでも犬死です」

こうして斎藤清は後退し、7名ほどの兵士が合流した。しかしその時、迫撃砲弾が炸裂し斎藤清は気絶した。
「明るくなりかけたころ、意識が戻りました。どこも怪我していませんでした。でも、腕時計類がなくなっていました」
合流した他の日本兵が、むしり取っていったわけである。
 斎藤清は一人ぼっちになり、水を求めて沢に下りた。そこでも激しい機関銃攻撃を受け、その後突撃前の荷物の保管場所に戻った。しかし、自分の荷物はすでになくなっていた。 食料も、全く手に入らなくなった。

こうして913日の総攻撃も、失敗に終わった。日本軍6200名のうち633名が戦死し、アメリカ軍の死者はわずか31名であった。その後の調査では6200名のうち戦闘に参加したのは、2000名程度と予測されている。

915日、海上では潜水艦「伊一九」が米空母「ワスプ」を撃沈し、日本は思わぬ大戦果をあげた。この時期が、米軍にとってはもっとも危機感を感じた時期にあたる。そんなことを、兵達は知るはずもなく、「死」に向かって進んでいく。陸でも海でも、日米両軍の死闘が続けられ、果てしない消耗戦と化していった。

斎藤清と原田昌冶が戦った草原とは、おそらく飛行場に近い「ムカデ高地」と日本が名づけた標高200メートルほどの高原であろう。 バラバラに突撃した攻撃は、失敗に終わった。高原は血に染まり、アメリカ側は「血染めの丘(ブラッディリッジ)」と呼んだ。

私たちは、ムカデ高地に上がった。整備された道が続いていた。
「ここにあるのは、第二師団のメモリアルです。隣に川口支隊のメモリアルがありましたが、メンダナホテルのそばに近年移動しました」フランシス
 なるほど、前日私はホテルのそばにその慰霊碑を見つけ慰霊を済ませていた。再び、ムカデ高地に戻る。草原が広がっている。あまりにアメリカの砲撃を受け、草木が育たなくなってしまったらしい。 そして、大変な暑さだ。汗が滴る。こんな暑さの中で兵士は戦い、傷つき死んでいったのかと思うと哀れでならない。

                
                          BEFORE〈〈    〉〉NEXT

        
inserted by FC2 system