HOME〉Guadalcaanal                                             Guadalcanal Island >2003-08



            
     一木支隊の全滅Ⅰ
                          アリゲータークリーク


 
 ソロモン諸島                       
 
  
                   
 
 
     〈搭乗した週2便のエアーニューギニーの便〉
 
    
                〈一木大佐〉

   
          〈こちらの写真の方が有名〉
 
  
  〈テレビカメラに向かって語る旭智輝さん 2008 2 11〉


 
         〈当時の旭さん 中央〉

  
          〈大本営直属の一木支隊〉
 
 
       〈金髪の島民が多いのが特徴〉

  
    

 
      〈路上のマーケット ホワイトリバーで〉

  
 
 私がガダルカナル島にたどり着いたのは2003811日のことである。 パプアニューギニアの首都ポートモレスビーと成田(約5100キロ)をつなぐ便が週一便開設され、そのポートモレスビーから週二便ガダルカナル島へ渡る便(1100キロ)がある。
 東西140キロ南北45キロのガダルカナル島は、南海に浮かぶ楽園の島だった。現在は、人口約50万のソロモン諸島という国に属している。

この島が、太平洋戦争を代表する激戦地となったのは、1942年から翌年にかけての半年間である。島は、連合軍のオーストラリアとアメリカを結ぶ線の上に位置する。

「この島を押さえれば、米豪両国を分断できる」と日本は考え、そこに海軍が飛行場をつくり始めた。その飛行場の名は「ルンガ飛行場」、現在も使用され「ヘンダーソン飛行場」と呼ばれている。この島を足がかりに、日本はこのあとフィジー・ニューカレドニア・サモアへの侵攻を計画していた。

194287日米軍上陸の日から、翌年27日日本軍の最終撤退まで、日本軍兵士にとって「ガ島」はまさに飢餓の島「餓島」になっていった。

   アメリカ軍の上陸

 海軍は、ガダルカナル島の飛行場建設をはじめた。昭和177月から開始され、85日には長さ800メートルの滑走路がほぼ完成した。ツルハシ・シャベル・モッコの道具しかない、「手作り」の飛行場である。アメリカ軍は、この飛行場建設をいち早く発見していた。上空から観察し、完成と同時にそっくり頂こうと考えていたわけである。

この時のガ島の日本軍は、合計2571名であるが、戦闘が可能な陸戦部隊はわずか280名、つまり大半の兵士は銃の撃ち方も知らない工兵であった。
 飛行場が完成し祝賀式まで行われた翌日、1000キロも離れているラバウル基地から零戦が到着することになっていた。

その87日早朝、アメリカ軍の大船団が姿を現した。アメリカは、太平洋にいる殆ど全ての海軍力をこの時動員したのである。百隻あまりの艦艇が、北海岸を埋め尽くしていた。日本軍の飛行場建設に駆り出されていた島の住民たちは、この日の朝宿舎から姿を消していた。この日の上陸作戦を、事前に知っていたわけである。

当初日本兵は、この大船団を日本の艦艇と思ったらしい。手をふり歓迎したが、激しい艦砲射撃のあとアメリカ軍は上陸してきた。

一個師団(13000人)が、ガダルカナル島(1万名)とツラギ島(3千名)に分かれて上陸し、瞬く間に飛行場を奪った。ツラギ島の守備隊は、全滅した。ガ島の武器の持ち方さえ知らない工兵たちは、ジャングルに逃げ込むしかなかった。

この時グアム島にいた一木支隊の兵士たちは、その87日グアム島を後に、日本に向かっていた。兵たちは日本への帰還を信じ、みやげ物まで買っていた。

「貝がらのハンドバツクを、買ったと思います」方川新一
「死なずに、帰れる。ふるさとへ帰れる」と多くの兵士は、喜んでいた。しかし、翌朝目にした島影は、前日あとにしたグアム島であった。

88日、米軍の上陸に驚愕した日本は、反撃のために三川中将の第八艦隊を送り込んだ。旗艦「鳥海」を中心に重巡古鷹、加古、青葉、衣笠、軽巡天龍、夕張、駆逐艦夕凪の計8隻がニューブリテン島ラバウルを出撃した。日本が一番恐れていたのは、やはりアメリカの航空戦力であった。航空機に発見され攻撃を受ければ、ひとたまりもないのである。

この88日は、艦隊は結局発見されずにすんだ。それは、好運以外のなにものでもなかった。何故、発見されなかったか。一つは、アメリカ空母艦隊は、すでにガダルカナルを去っていた。アメリカは4月の珊瑚海海戦で空母レキシントンを、6月のミッドウェー海戦で空母ヨークタウンを失い、これ以上の空母の喪失を絶対に避けなければならなかったわけだ。

午後1130分、旗艦「鳥海」を先頭にサボ島沖に達した日本艦隊は米艦を発見し、探照燈を照射して魚雷を発射した。瞬く間に重巡キャンベラは撃沈され、重巡シカゴと駆逐艦一隻が大破した。さらに日本艦隊はツラギ方面の米艦艇に向かって突撃し、重巡アストリア、クインシー、ビンセンスを撃沈、駆逐艦一隻を大破した。日本軍の被害は、敵艦に探照燈を照射し続けていた「鳥海」が小破したにとどまった。  

日本海軍は、表面的には大勝利となった。これが、「第一次ソロモン海戦」である。世界海戦史上初の艦隊夜戦は、日本側の一方的な勝利で終わった。日本軍が後に悔やんだのは、米の輸送船団に攻撃を行わなかったことである。その理由は、簡単である。夜が明ければ、制空権のない日本軍には勝ち目がないのである。一刻も早く、日の出までにより遠距離に避難しなければならなかったのだから。

こうして、ガダルカナル沖のアメリカ輸送船団は無傷のまま残された。米はこの屈辱的な海戦結果を、国民に2ヶ月間隠し続けた。反撃を受けた米艦隊はこの水域から撤退した。上陸した米軍は一時的に島に孤立したことになる。

それを知った日本陸軍は、しめしめとガダルカナル島奪回を考えていく。その奪回作戦に、一木支隊が立候補したのである。一木大佐は、日露戦争と同じ時代遅れの銃剣突撃主義を掲げ、勝利と凱旋だけを考えていた。

すぐに、部隊は815日トラック島に移動した。そこで僅か2200名の一木支隊は、ふたつに分けられた。理由は、9ノットの輸送船では速度が遅かったからである。これでは、米軍機の餌食になる可能性が高い。夜間に兵員を上陸させ、夜が明ける前に米軍機の攻撃範囲から抜け出さなければならなかった。

22ノットの駆逐艦6隻に、一木支隊の先遣隊(第一梯団)900名が乗り込み、後続隊(第二梯団)の1100名は、輸送船ボストン丸と大福丸に乗り込んだ。

斎藤清と旭智輝は運命の第一梯団に選ばれた。より危険な第一梯団には、家族を持っていない兵士が選ばれたという。
「グアム島からトラック島へ向かう大福丸の甲板で、内沢小隊長に一緒に第一梯団に行ってくれないかと頼まれたんですよ。はい、一緒に行きますと言うとね、小隊長はそうか一緒に行ってくれるかと、喜んでくれました」斎藤清
「ガダルカナルなんて、名前はわからんさ。ただ飛行場の奪回のために、ソロモン諸島に折たたみ式舟艇で上陸するとだけ、下士官には伝えられていたんだよ」旭智輝
911名の第一梯団は、駆逐艦九隻に分乗した。
「私が乗ったのは、陽炎でした。真平な海を、40ノットの猛スピードで進むんです。昼間は暑くって大変です。主砲の真下に潜り込んで、太陽を避けていました。赤道を越えたときは、兵士が走り回って知らせてくれましたよ」斎藤清

一木支隊は、ほぼ同時にトラック島を出航したが、第一梯団の駆逐艦と第二梯団の輸送船団とはみるみるうちに離れてしまったという。方川新一は、第二梯団のボストン丸に乗り込んだ。彼は、幸運であった。第一梯団の90パーセントが戦死するのだから。

アリゲータークリーク

私のお世話になったホテルは、日本の北野建設が経営している「キタノメンダナホテル」であった。実は民族紛争が激化し、この年7月末にオーストラリア・ニュージーランド・パプアニューギニア・フィジーなどの多国籍軍2千名が警備体制に入るという事態に、私は治安面の不安を感じていた。ホテルのフロントで、

「日本人スタッフの方は、どなたかいらっしゃいますか?」
「ミスターミネムラが居ます。少々お待ちを」
 私は、経理部長の峰村さんのお世話になる事となった。
「ご承知のとおりこの島には現在多国籍軍が入っていましてね、過激派たちから武器の没収などをしています。ですから、現在はかえって安全度が高くなったと思います。ただこの島は道が悪くてですね、戦跡を廻るには普通のタクシーでは無理です。四輪駆動車でなければ、殆どは無理ですよ」

 若い峰村さんは、テキパキと話してくれる。こうして私は、現地ガイド兼ドライバーを依頼することとなった。

  一木支隊第一梯団の上陸

 
もともと2千名足らずの部隊を、ふたつに分けるのは自殺行為であった。実際は1万人以上の米軍の兵力を、2千名と根拠もなく決め付けていたようだ。しかも乗り込んだ駆逐艦には大型の武器は搭載出来ず、小銃と若干の機関銃があるだけであった。昭和17818日午後9時、一木支隊第一梯団はタイボー岬に上陸した。

そこから、40キロ西の「ルンガ飛行場」を目指し兵士は海岸を進んだ。記録によれば部隊はすぐに移動し、19日朝までに15キロ先のテテレまで移動している。部隊はここで大休止をとり、午前830分に館中尉以下の斥候隊が出発した。ほぼ全滅する三組34名の、斥候隊である。

「俺も最初に、斥候隊に選ばれたんだ。だけどな、第四分隊の赤坂分隊長に代わったんだよ。行った斥候は血だらけになって、三人だけが帰ってきたんだ」旭智輝

その斥候隊は、100名規模の米軍と遭遇し銃撃戦となった。米軍は全員が、自動小銃を持っていた。
「日本なんてな、三八式銃だぞ。かなうわけがないんだ」旭智輝 三八式銃とは、まさに明治38年に発明された旧式の単発銃である。

米軍は、日本兵の死体から日本陸軍が上陸したことを知り、あわせて通信連絡用の暗号書を手にいれた。820日午前2時、部隊は更に西のレンゴに到着した。

「とにかく、海岸とジャングルを行ったり来たりして進んだんだ。真っ暗だし、眠いしな。俺は分隊長だったから、分隊の14名を引っ張っていくわけだ。若い兵隊は歩きながら寝るからな、タオルを背中につけて後ろの兵隊の目印にしたりしたんだ」旭智輝

レンゴから飛行場までは、約10キロの距離である。午後6時にレンゴを出発、午後8時ころにはテナル川に到着している。午後10時半ころ、イル川東岸で米軍の攻撃を初めて受けた。米軍はあらかじめジャングルに設置したマイクロホーンで、日本軍の動きを知り待ち伏体勢についていた。

「俺たちの食料は2日分、銃弾はひとり100発もなかったな。突撃した日は、日曜日だぞ。アメリカは日曜日は遊んでいるから、そこを狙うと上官が言っていたからな。飛行場を占領したあと、米軍のビールでも飲もうと俺たちは考えていたんだ。そんなこと無理に決まっているんだ」旭智輝
 
                           
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