HOME〉Guadalcaanal                                             Guadalcanal Island >2003-08



            
  ミッドウェーからガダルカナルへ
                            


  
ソロモン諸島                       
 
  
                     〈アウステン山からタイボ岬を見る 2003 8 13〉
 
 
            〈方川新一さん 2008 12〉

   
        〈歩兵第27連隊時代の方川さん〉
 
 
  〈テレビカメラに向かって語る旭智輝さん 2008 2 11〉

     
           〈当時の旭さん〉

   
  〈多くの兵士がグアムで購入した貝殻のハンドバッグ〉
 
      
         〈斉藤清さん 2004 2 11〉

    

      〈連隊旗の旗手もしていた斎藤さん〉
 

方川新一さんは、1918(大正7)年、北海道本別町に生まれた。方川家は、明治32年に入植した典型的な開拓農家であった。小学校三年生の時に父を亡くし、高等小学校を卒業すると彼は一家の大黒柱となって働いていた。

昭和一七年五月一日、二度目の臨時召集令状が届いた。町役場の兵事係りが、8キロの道のりを歩き届けにきた。 
「旭川の第28歩兵連隊に入隊せよ。期日は、55日」
 54日の出発まで、新一にはわずか3日しかなかった。地元の小学校で壮行会が開かれ、駅では「万歳」に送られた。
「二度と、ふるさとに戻れぬかもしれない」脳裏に、そんな思いがかすめた。

59日、この第28連隊を母体とする一木清直大佐の、「一木支隊」が結成された。この部隊は、日本陸軍を代表する屈指の精鋭部隊である。
 日露戦争二〇三高地・続く奉天会戦、シベリア出兵の尼港事件、盧溝橋事件、ノモンハン事件というまさに日本史そのものを経験し、各地で輝かしい戦績をあげてきたのである。特に、日中戦争の発火点「盧溝橋事件」では、一木清直は北支那駐屯第一聯隊第三大隊長という事件の当事者であった。

方川新一たちには、新品の夏服の軍服が支給された。これで行き先は、「南方」と分かった。兵達は旭川駅まで徒歩で行軍し、列車に乗せられた。その同じ行軍の中に、旭智輝(あさひともてる)さんがいた。彼は北海道北見市に、同じ大正7年に生まれている。方川新一と同じように、当初は第27連隊に入隊し二年半後の昭和16年秋に除隊するが、再び召集をうけ、この一木支隊に配属された。

 514日早朝、旭川駅の一番ホームでのできごとである。      「当時富良野に住んでいた妹がなあ、歯医者通いでたまたま旭川駅のホームにいたんだ。そこに、われわれが行進してやってきたんだよ。
 妹は、俺を見つけてさ。お兄さんて叫んだんだ。そしたらな、妹は憲兵につかまってそのあとスパイ容疑で取り調べを受けたんだよ。誰に出撃の日を聞いたとか、なんとかだ。まったくひどい話だ。俺はその時はそんなこと知らずに、広島宇品から一万トンの南海丸に乗ってミッドウェーに向かったのよ」。

518日、広島県宇品から輸送船(善洋丸七千㌧と南海丸)に乗り一木支隊は出航した。翌日門司で独立速射砲第八中隊が合流し、一木支隊は合計2507名となった。

上陸訓練

525日、船団はサイパン島に到着した。
「チャランカという町の宿舎に、入れられました。そして、海岸で二回上陸訓練をしたんです」方川新一

「いったん沖合に出て、それから上陸用舟艇に乗って海岸に近づくのです。海岸から300メートルのところにリーフがあって、そこから先は浅くて舟艇が進めません。そこで、海に飛び降りるんです。深くても、せいぜい肩の辺りまでです。救命胴衣を着けているので、浮きすぎてかえって歩きにくいのです。当時はビニールなんてないですから、銃に海水が入らないように蓋がありましたよ。鮫対策の講義を受けましたね。鮫は自分よりも長いもの大きいものには、寄り付かないのです。サソリなどの毒虫対策も、教えられました」

こうして、数日を過ごした一木支隊はミッドウェーを目指した。船は、東に向かう。
 65日兵隊たちは甲板に集められ、作戦の内容が初めて明かされた。
「ミッドウェー作戦に参加し、7日イースタン島とサンド島に上陸する。れわれ上陸部隊は、銃剣による白兵突撃によって敵を殲滅する」

占領まで銃の使用は禁じられ「占領後銃の使用の認める」という、前近代的で無謀な作戦が告げられた。一木清直大佐隊長の作戦は、日露戦争以来変わらず採用してきた「白兵突撃」であった。無論、この上陸作戦は中止になる。日本の機動部隊が、ミッドウェー海戦で全滅したから。

 現在富良野市にお住まいの斎藤清さんは、その「ミッドウェー」に向かって、同じ南海丸に乗っていた。斎藤清も、大正7年生まれである。北海道富良野市の農家に育っている。

「途中で何度も米軍機に発見されてね、攻撃もされたんだよ」なるほど、ミッドウェー作戦がこれでは当初から成功するはずがなかった。
 もし、一木支隊がこの上陸作戦を実行していたならどうなっていただろうか。すでにアメリカは日本の作戦内容を熟知していたため、ミッドウェー島の防御体制は整えられていた。たとえ部隊が上陸しても、機関銃と砲弾の嵐が一木支隊を襲ったに違いない。

   グアムのお土産

輸送船団が引き返した先は、グアム島であった。
「中心の町(たぶんアガニアであろう)に、2ヶ月くらいいたと思います。訓練らしい訓練はなかったんですが、水泳の訓練だけはさせられました。泳げる兵隊なんて少なかったですからね、ずいぶん海の水を飲まされましたよ」方川新一

613日にグアム島に上陸した兵隊たちは、しばしの南国での生活を楽しむことができた。

「島民は親切でした。スパイの話も聞きませんでしたね。タバコを住民にあげると、喜んでくれました。壊れた腕時計でも、とても喜ぶんです。椰子の木に登ってもらって、実を上から落としてもらうんです。直接地面に落ちると割れてしまうので、天幕を下でわれわれが開いてキャッチしましたよ」 方川新一

「グアム島でね、アメリカの大きな国旗を手に入れたんだよ。赤と白の縞の部分はね、縦に引き裂いてふんどしにしたんだ。残りの星の部分は、記念にもって歩いていたんだよ」斉藤清

「グアムではな、泳げない奴は泳ぐ訓練させられたぞ。俺は、第一中隊(樋口勇作大尉)の分隊長で14名の部下がいたんだ。毎日、カツオを食ったな。カツオなんてボソボソしてすぐ飽きるからな、アメリカが残していった缶詰の肉なんかも食ったぞ」 旭 智輝  

グアム島はアメリカ領であったが、昭和17年の早々に日本軍が上陸し占領している。アメリカはほとんど抵抗せず簡単に日本軍に明け渡したことになる。

87日、グアム島からボストン丸と大福丸は、広島宇品に向かった。「下士官が集められてな、旭川に帰るから帰りの準備をしろと言われたんだ。武器なんかも集められてな、完全に帰り支度だったんだ」旭 智輝 

こうしていったん部隊は、グアム島を離れた。北に進路をとり帰国への道を進み始めた輸送船の「ボストン丸」と「大福丸」であったが、一木隊長はこのまま手柄も立てず帰国することを望まなかった。盛んに大本営に、作戦参加を立候補していた。

ちょうどその同じ87日の早朝,アメリカ軍2万が、ソロモン諸島ガダルカナル島に上陸を開始した。大本営は、迷わず一木支隊を「ガタルカナル奪回作戦」に投入することを決定した。

「ところがな、船の中でまた下士官が集められて、大本営から作戦変更の連絡がきたっていうのさ。 翌朝甲板にでたら、見覚えのあるグアム島だったのさ。グアムから、今度は巡洋艦1隻と駆逐艦3隻に乗せられたんだ。35ノットの猛スピードさ。トラック島なんて、素通りみたいなもんさ」旭 智輝

こうして帰国のみやげ物まで買った一木支隊2200名の兵士は、「飢餓の島ガダルカナル」に送られることとなった。兵隊の中でこの奇妙な島の名を、知るものはいなかった。ガダルカナルとは、「グァダルキャナル」と地元では発音する。「悪魔のすむ島」という意味である。


          
  〈上空から見た西端「エスペランス岬」2003 8 11〉  

                             〉〉NEXT
                          
        
inserted by FC2 system