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    盧 溝 橋 ろこうきょう                                                 
                         
日 中 戦 争 Ⅰ
 

  中華人民共和国
                                                                                 
    
 
     〈2011 1 5  の盧溝橋。北風が吹き、訪問客は見えなかった。遠くに見える人工雪のスキー場が時の流れを感じさせる〉 
                                 
 
 
     〈この鉄道橋の向こう側が事件現場である〉   

  
         
 〈盧溝橋から苑平古城を見る〉

    
     
 〈日本軍が占領したかつての苑平古城の入り口〉

        
 
      戦闘に積極的だった一木少佐〉 
     

      
       〈当時連隊長だった牟田口廉也〉

 
         〈乾隆帝の碑がある〉
        

中国では「七七事変」と呼ぶこの日中戦争の発火点となった盧溝橋事件を、簡単にまとめることは難しい。多くの研究がなされているが謎が多く、しかも戦後の政治的な思惑も絡みより史実が錯綜していると言える。

 二度目の訪問となった201115日は、冬晴れの中強烈な北風が吹きつけていた。オリンピックを機に整備が進んだ地下鉄を使い、北京市中心部から10駅ほど西に進み、そこからタクシーを拾った。「盧溝橋」の行先を告げると運転手が途端に不快感を示したが、人工雪のスキー場を右手に眺めながら250円ほどの料金で盧溝橋にたどり着いた。
 盧溝橋は、1192年に完成しマルコポーロも絶賛した美しい橋として名高い。橋には私たち以外に人影が見えない。入場料10元を払い260㍍の橋を渡りきる。
 橋の欄干には全て表情やポーズが違う400体以上の獅子像が並んでいるが、前回訪問した9年前には賑わっていた土産物屋街もなくなっており、やや寂しい。橋の北側に鉄道の橋が見える。その向こう側がこの事件の発生地点にあたる、日本軍の夜間演習地点である。

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 この日の夕刻、支那駐屯軍歩兵第1連隊第3大隊第1中隊(清水節郎大尉)約130名は、夜間演習のため豊台にあった兵営を出発し、午後7時半には演習が開始された。匍匐前進をしながら鉄条網を突破する訓練である。兵は攻撃側と守備側に分れ、守備側は軽機関銃から紙でできた空包を発砲するものである。
 午後10時半ころ、この清水中隊は後方から小銃の射撃を数度にわたって受けた。急きょ集合ラッパで兵を集めると、再び鉄道橋に近い堤防方向から十数発の射撃を受けた。また盧溝橋(宛平県城)城壁と堤防上に懐中電灯らしいものが明減するのが見えたという。

なぜ日本軍が北京にいるのか 
 駐屯していたのは支那駐屯軍(総兵力約5,600名)である。当時日本が手に入れていた権益と北平(北京のこと)・天津地方の在留邦人の生命財産を保護するという理由で駐屯してが、天津に主力を北平城内と北平の西南の豊台に一部隊ずつを配置し、この時期は連日演習を続けていた。
 この支那駐屯軍の駐兵は1900年の北清事変後に調印された北京議定書に基づくもので、1936年には従来の2千名から5千名に増強していた。
 この北京議定書により天津を中心に当時イギリス約1千名、アメリカ約1200名、フランス約1800名、イタリア約300名の兵を駐留させていた。

ある二等兵の行方不明
 射撃を受けた直後点呼をとると、志村菊次郎二等兵の行方がわからない。しかしこの兵は約20分後の午前015分頃無事発見された。行方不明の理由は用便、道に迷ったなどあるがはっきりしない。
 一方、伝令が豊台の大隊本部に到着した。一木清直大隊長は北平にいた牟田口廉也連隊長に連絡をとり、同時に大隊に出動を命じ一木自身も出発した。
 また天津の駐屯軍本部や北平特務機関にも連絡され、中国側の第29軍が配備されている宛平県城に「軍使」を送ることになった。
 この間、清水中隊は演習地を引き払った。そして一木大隊と清水中隊は、西五里店西方で落ち合うことができた。一木大隊長は「動かぬ証拠」と考え、捕虜獲得のために清水大尉に偵察を命じた。ところが清水大尉は予想外にも十数名の中国兵と遭遇してしまい、機転をきかせその場を切り抜けた。
 一方、一木大隊長は大隊主力を前進させ、午前3時ころ要地である一文字山を占領した。そしてその直後龍王廟方向から3発の銃声を聞いた。

牟田口=一木の攻撃命令
 再度攻撃をうけたと直感した一木は、午前4時牟田口連隊長に攻撃許可を求めた。牟田口は宛平県城に交渉のため森田中佐を送った直後だっただけに躊躇したが、河辺虎四郎旅団長の許可を得ることなく一木大隊長に攻撃許可を与えた。牟田口の持論は「現地の指揮官が判断するのが当たり前」というものである。
 その後許可を得た一木大隊を中心として、付近一帯で中国側の中国国民革命軍第29軍と小競り合いを繰り返していく。
 この戦闘の結果、一木清直の第3大隊は戦死10人、負傷者30人を出した。第29軍は死傷180人(戦死60人)と伝えられる。
 事件は一旦ここで終了した。両軍はそのまま睨み合いを続け、日本軍が実際に盧溝橋に隣接する宛平県城を占領したのは7月29日のことである。その後盧溝橋のかかる「永定河」を境に分離する協定が成立していく。

事件の初めの一発は誰がうったか
 盧溝橋事件の一発(実際は十数発)を誰がうったかという問題は、現在も決着がついていない。日本軍謀略説、第29軍射撃説、国民党謀略説、中国共産党謀略説、その他(他軍閥または民間人)などが考えられるが、この事件に関わった牟田口連隊長・一木大隊長のその後の行動バターンを考えると、この二名が手柄を求め強引にあるいは意図的に事件を進めていったと予想することができる。
 牟田口は悪名高き「インパール作戦」を立案実行し、一木清直はガダルカナル島で無謀な銃剣突撃を敢行し自身を含めて彼の支隊はほぼ全滅している。とにかくここから「泥沼の日中戦争」は始まったのである

                  
  
                     〈東側から西側を望む  名物の獅子像が並ぶ〉

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