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      シベリア抑留  ベガワード
                
                               


  
ウズベキスタン共和国                                         十勝毎日新聞にて連載予定                                            
 
  
                 〈ベガワードの日本人墓地 正確には日本人第二墓地にあたる 2012 8 11 撮影〉 
      
              
 
     
       〈体験を語る吉森さんと今野さん〉

 
  
      〈これも抑留者が建設した水路)

  
           〈ファルファード水力発電所〉
 

 
     〈ダムのスタッフ 右側の方に大変世話になった〉

  
         
      〈バザールで見つけたメロン。
          持参できなかったことに悔いが残る〉

「ウズベクのラーゲルにどっさりメロン来て 生れて初めて知りしその味」という短歌が、ここにある。これは帯広市の吉森美信さん(88)が、シベリア抑留時代に初めて食べたウズベクのメロンの味を思い出して詠んだものである。その抑留の舞台になった場所はベガワード、首都タシケントから南に140㌔にある。

「タシケントからベガワードに着いたのは、昭和201020日です。収容所に入れられました。製材していない材木で作られていて、壁も泥でできていましたよ、ウズベクは雨が降らないからね、屋根も泥ですよ。我々が来る前にドイツ兵がいたらしく風呂のようなものもあったし、最低限の設備はあったね。
 辺りは草原と言おうか砂漠だよね。水さえあれば作物が採れますよ。時々ラクダのキャラバン(隊商)が通っていたな。寒く無かったね。運がよかったんだ。ただいつも腹ペコだったよ。朝はスープと米のおかゆ、強制移住させられた朝鮮人が水稲を作っていたんだね。昼は黒パンだけ。夜はスープとパンと決まっていたよ」と、吉森さん。

「ラーゲル(収容所)には1500人いたけど、始めの二年間は町工場に行かされたんだ。運が良かった、重労働じゃなかったからね。一か月に給料50ルーブルだよ。小さな黒パン二つ買ったらおしまいだよ。
 食べ物は足りなかったけど、一週間に一度は入浴と着替えが出来たから恵まれていたね。メロンを一度だけ食べたよ。リペオーシカという地元のパンも懐かしいな」。

 私がベガワードを訪問したのは、811日である。正確に言うとその二日前の夕刻に辿り着いたが、町に一軒しかないホテルで「正式な予約のない外国人はお断り」ときっぱり断られ、タシケントに戻った経緯がある。この日はリベンジと意気込んだが、日中は40度前後の日が続き疲労がピークに達していた。しかしこんな暑さの中でも、抑留された日本人たちは過酷な労働を強いられていたことを決して忘れてはならない。

 65万人のシベリア抑留者のうちウズベクに送られたのは、25000人とされている。そしてそのうち813名が尊い命を失っている。シベリアと比較すると気候に恵まれ、確かに死亡率は高くないが過酷な労働と少ない食料の支給には変わりがなかった。

私はまず、中心から西に5キロほどの日本人が埋葬されている墓地を訪問した。地元の大きな墓地の一角に慰霊碑と墓が並んでいた。漢字の氏名が54名、カタカナの氏名が12名計66名の氏名が刻まれていた。

ベガワードに抑留された日本人は6690名という記録があるが、抑留者のもう一方に芽室町在住の今野兵一さん(91)がいらっしゃる。
「昭和22年にタシケントから列車に乗せられ異動しました。辺りは砂漠で30センチほどの陸ガメもいました。食べたと思います。私もここで初めてメロンを食べましたよ。
 ラーゲリはシルダリア川の南側にありました
(現在タジキスタン領)。毎日黒パンとスープでした。毎朝一日分の黒パン360グラムが渡されました。自分で保管用の袋を作り、その中に大切に入れていましたが気が付くと盗まれていることもありましたよ」。

 町中には大河シルダリアから水を引く運河(カナル)が数多くあり、その水を利用した工場が立ち並ぶ。これらの運河も、抑留日本人が建設にあたった。
「昭和
22年春に、北側のラーゲルに移動しました。そしてシルダリアからの水路工事に当たりました。水路に使う石を貨車から落とし、トラックに積み直す仕事でした」と、吉森さん。
水路を作る仕事をしました。スコップで堀った土を貨車に入れました。昭和235月ころまでこの作業でしたよ」と、今野さん。

 私は、最後にファルファード水力発電所を訪問した。戦後完成した発電所であるが、この発電所の礎は抑留者たちの強制労働である。
 私のようなものが突然訪問しても、当然ながら埒が明かない。しかし私には法外な料金を求めたタクシー運転手が粘り強く交渉してくれ、見学許可が下りた。
 急な階段を下りると、利用している大河シルダリアの水が青く光り輝いている。笑顔の係官は、私に撮影の許可もしてくれた。この発電所の基礎を日本人が作ったことを、彼らは十分に知っていたのである。「また来てください」。その固い握手は、私にとってこの旅の締めくくりとなった。日本人の貢献を、この国の人たちは理解してくれていた。思い残すことはない、陸路
3000㌔の旅は終わりを告げた。    完

 次年度は、シルクロード コーカサス編を計画しております。
 


    
                〈ベガワードにはこのような水路(カナル)が数多くある。いずれも日本人がその建設にあたった〉
                                         
   

               
〈ファルファード水力発電所から、大河シルダリア下流を望む。 2012 8 11 撮影〉

     
   〈吉森さんが語っていたパン リピョーシカ バザールで〉          
 〈タシケントのヤッカサライ日本人墓地〉

                          
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