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民主化への道 キルギス四月革命
キルギス共和国 十勝毎日新聞にて連載予定
〈四月革命の現場で語るオルムベックさん 右 キルギス大統領府 2012 8 5 撮影〉
〈2010年4月6日 広場を埋め尽くした民衆)
〈あちこちに残る当時の銃弾の跡)
〈大統領府前にある犠牲者のレリーフ〉
「これがその時の銃弾の痕です。見てください、あちこちにありますよ」。そう語る地元日本語通訳オルムベックさん(47歳)の指さす右手が力強い。なるほど、あちこちに新しい銃弾の痕跡が残る。
昼間の炎熱がようやく冷め始めた8月5日午後6時、首都ビシュケクの中心にあるキルギス大統領府前での出来事である。2010年4月6日数千人の民衆がここに集結し、当時のバキエフ大統領の退陣を叫んだ。それに対して、政府側は発砲で応じた。
「政府はウズベキスタンのアンディジャン事件(2005年市民300名以上死亡)のように、発砲すれば国民を弾圧できると思ったんですよ。ところがキルギスはウズベクとは違う。国民に銃を向けたことを、けっして私たちは許さない。銃を国民に向けたことを知ったので、私もここに集まったのですよ。
ビルの屋上には、スナイパー(狙撃兵)が見えました。携帯電話を使用していると、指導者とみられて狙われました。ほらその場所には、死体が重なっていましたよ。私たちは、一日で政府を倒さなければいけないと思いました。キルギス人はなんでも長続きしないんです。この日に決着をつけなければと必死でした」。オルムベックさんの兄弟三人も、皆政府前広場に集まっていた。彼らは、ここで合流した。「兄さん、あんまり前に行くなよ。俺は子供三人だけど兄さんは五人だろ。兄さんが死んだら八人も面倒見なくちゃいけなくなるからとここで叫んだんですよ」。
その日バキエフ大統領は亡命し、民衆は勝利を確信した。これが「キルギス四月革命」である。
私はわずか二年前の出来事を現場で見聞きし、初めて民衆による「革命」を実感した。民衆の力は凄い。そしてオルムベックさんの誇り高い姿も、眩しかった。この革命の市民側の犠牲者は計86名。大統領府前にはその死を悼むレリーフが掲げられている。
「このうち三名は私の知人です。私の妻は医師をしていますが、市民側も兵士側も負傷すれば同じ病院に運ばれました。兵士側は手当てがひと段落するとさっさと姿を消していったそうですよ」。オルムベックさん。「この年は物価が急に上がりだしたんです。電気料金を中心に、日本人でも驚くほどに。停電も多くなりました。春になったら、きっと革命がおこると人々はささやきあいました。
そして革命は、政府要人の暗殺から始まりました。そしてそれに対して焦った政府は野党のリーダーたちに不当な理由をつけて逮捕し始めたのです」。当時のバキエフ大統領は、身内中心に不正蓄財をあからさまに続けていた。国民の一割が国全体の九割の富の独占する現実に加え、「牛の糞を燃やせばいいだろう」とテレビ番組でのバキエフ大統領の失言が、国民に火をつけたという。
1991年のソ連崩壊と同時に、キルギスは独立した。国民は突然の「自立」と同時に、慣れない資本主義と民主主義に困惑した。当時のアカエフ政権も2005年に不正蓄財がもとで崩壊(チューリップ革命)し、そして5年後の2010年に新バキエフ政権も同様の道を歩んだことになる。
革命慣れした国民の間には「汚職だけは少なくなったけど、国の体制はなんら変わらない。また五年ごとに革命が起こるのさ」という空気があるという。
けっして順調に進まぬ民主化。「しかし、キルギスは民主国家ですよ。もっと進んでいないのが隣国ウズベキスタンです。アンディジャンであれだけの人が亡くなったのですから」という声を私は聞いた。
私はその町、アンディジャンへ向かった
〈86という犠牲者の数〉 〈悪を示す黒い物を倒す民衆の力を表現しているモニュメント〉
〈当時焼打ちにあった検察庁の建物。現在復旧工事が進んでいる 2012 8 5〉
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