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    恐ろしかったあの夜
          
永塚彩子さん 3月10日東京大空襲 その3
                               
  
東京都江東区                       
 

  
          〈現在の臨海小学校 2010 11 13

   
           〈当時の永代橋 立派である

   
           〈現在の永代橋 2010 11 13
 

  
            〈当時を永代橋〉 

  
         〈現在の永代橋の案内板 2010 11 13〉 

  
       〈黒船橋とそのわきにある「慰霊碑」〉 

  
             〈現在の黒船橋〉 

  父が「明日新潟へ迎えに行ってくる」と言うのは、小学五年と三年の弟二人が新潟県の魚沼郡に、学童疎開していたのです。翌朝早く母が、おにぎりを作って父を送り出したものの、早く弟に逢いたくて、無事に帰って来てほしい、何度外に出てみた事か今も忘れられません。

 新潟に着いた父を見て、弟達はユウレイかと思ったそうです。と言うのは先生が「深川は全滅でお前達はみなし子だ」と言われたそうです。上の弟は責任感の強い子でこれから弟をどうやって守って、生きてゆくか考えたそうです。
 五年生の子にこんな想いをさせるなんて、戦争なんて、ひどいです。さぞ辛かった事か、そこへ父が行ったのですから、びっくりして父の胸にすがって泣きに泣いたそうです。でもまだ迎いに来られない子が沢山居るので、後ろ髪を引かれる思いで二人を連れて帰って来たそうです。あの日はすごく暑い日なのにモンペの上下を着ていました。

    聞き取り2010113日 1029

 

 昭和20年3月10日の夜、忘れられない日となりました。
平和だったわが家はこの少し前からなんとなく、朝の様子が変
わって来ました。母の「行ってらっしゃい」という声も、いつも
と違い、心配そうなそれでいてどこかきびしく聞こえました。
気をつけてと。


 埼玉へ疎開していておりましたが、東京へ帰りたくなり3月はじめに帰ってきてから、毎日警報を聞きながらの生活です。学校・仕事にみな出かけますが、全員無事に帰ってこれるか、母はそのことで、顔に声に心配の色が出ていたのだと思います。

この日は全員無事で、うす暗い明かりの中で一日の出来事、戦争のことなど語り合い、明日も気をつけて一日を大事にしてなど注意を父母から聞きました。

床について間もなく、10時頃サイレンに起され、急いで防空壕へ入りました。またという感じで慣れていました。寝間着に着替えて、寝ていました。ただ長い靴下をあらかじめブルマーに縫い付けて、すぐはけるようにしておいていました。この方法は私のオリジナルですね。

2階は危険なので、1階の二間に家族10人が詰め合って寝ていました。
 防空壕は、外に敷地がなくどこの家も家の中にありました。玄関付近の床の畳の一部を開けて入口にして、その床下に何か敷いてお布団を並べ、おこたをつくり、皆が入ります。頭の上はどうなるの?と思いました。どこの家もこんな感じでした。畳二畳分くらいのスペースしかありませんでした、子供だから入れたんですね。

深川あたりは砂地なので、大規模な防空壕は作れなかったと思います。玄関にはお風呂もありました。戦局の悪化で銭湯も閉鎖され、お風呂を作ったのだと思います。
 空襲に備えて、建物を壊す「家屋疎開」もあり、同時に道幅を広げた「疎開道路」も作られていました。

空襲警報は一度解除になりましたが、急に外が明るくなり、物凄い音がして外に火が見えました。

 ダメ、死んじゃう!
 隣組の人たちと外にいた父がいつにない顔で「もうダメだ、早く逃げろ、早くしろ」と、言いながら防空壕へ飛び込んできました。持ち出し用の身の回り品など何も持たずに外に飛び出したら、前の家が燃えていました。
 
私は大事にしていた花柄の傘を取りに戻ろうとしましたが、母が「ダメ死んじゃう」と後から抱きかかえて引き止めてくれました。それがなかったら、今の私はいなかったでしょう。

「先生に家が焼けたら、臨海小学校へ集まれって言われたよ」と、母に言うと「ダメ死んじゃう」と取り上げません。
 当時臨海小学校にはプールがあって、夏は泳げない兵隊たちがここで水泳の練習をしていました。当日は水がなかったようです。ただ鉄筋で出来た建物は燃えないと思って多くの人々が避難してきましたが、猛火に焼かれ、コンクリートの床は人間の油がいつまでも染みていたと後で聞きました。40名いた同級生のその後の消息も、全く分からないんです。

 ※臨界小学校に避難した人々はほぼ全員が焼死した  といわれている。

そうするうちにも、どんどん周りから火が飛んできました。父の判断で「焼けている方へ、永代橋の方へ逃げよう、オレについて来い」と、すでに真っ赤に火の手が上がっている方へと歩き出しました。父は関東大震災の時の経験を生かしたのでしょう、この先燃えるに違いない場所を、避けたのです。
 夜中なのに、足元が見える程明るい空を見ると大きな飛行機の羽が見えます。
 隣組の人も、大勢一緒に歩いてきました。ただ私の家の真ん前の清水さん一家は宗教の関係からか逃げようとせず、後で全員亡くなったと聞きました。

永代橋のたもとにある、友人吉野君の家は柱だけになって燃えていました。頭の上から火の粉がバラバラふってくるので、足がブルブル震えて歩けなくなってしまいました。

父が負ぶっていた8歳の妹があついあついというので、たたいたり水筒の水をかけたりして消しました。見ると防空頭巾が点々とこげ一箇所は大きく焼けていました。
 何度か途中に防空壕があって、入れてほしいと言いましたが中からその都度断られました。母が激怒し、それでわたしたちも励まされました。
 父は「荷物は捨てろ。子どもの手は離すな」と、言い続けました。

 わたしは6歳の妹をおんぶして、一生懸命歩きました。永代橋を渡るときに、焼夷弾が落ちてくるのが見えました。後日不発のものが、町中にたくさんありました。
 当時の墨田川は、水がきれいで夏は泳いで遊びましたし、お米もといだり出来たんですよ。水上生活者も大勢いました。
 
東京駅の八重洲口あたりで、道路の脇に蹲っている母子がいました。父が声をかけ手で触れるとそのまま倒れてしまいました。死んでいたのです。

道路が燃えていました。母は下駄と草履でしたが、私たち子供は布のズックの靴だったので、靴が燃えそうで怖かったことを覚えています。
 火の中をくぐり抜けて宮城(今の皇居)前にたどりつきました。門前に兵隊さんがいて中に入れてくれません。父たちが交渉して朝になったら前の明治ビルに行く条件で、やっと入れてもらえました。
 朝になり、父達が警視庁から一人1個のとろろ昆布を巻いた大豆入りのおにぎりを支給されてきた時の皆の安堵した顔は真っ黒でした。

その後父だけが、家を見に行きました。家の周辺は丸焼けでした。翌朝炊く準備をしていた米が、そのまま黒く焼けていたそうです。
 伯母(後藤のおばさん)とそこに養女としてもらわれていた姉わか子(16歳)の二人は、逃げ場を失い、黒船橋のたもとにあった防空壕に逃げ込んで、蒸し焼きになり焼死しているのが発見されました。伯母はかなり焼けていましたが、伯母が姉を庇ったようで姉はあまり焼けていなかったそうです。しかし持っていた印鑑は、人間の油でべたべたになっていたようです。

油の人型 ご主人の話
 日比谷から眺めていたが、米軍機は低空で30機ほどの編隊でまとまりながら、進入し焼夷弾を投下していました。ゆらゆらと焼夷弾が落ちるのが印象的でした。編隊が過ぎ去るたびに、大きく炎が上がり、新聞などが読める明るさでした。音がなく妙に静かでした。車庫やコンクリートの建物に逃げ込む人が多かったのですが、蒸し焼きになり頭や肩の形が人型になってコンクリートの地面に黒く残っているのを、数多く目にしました。


 ・終戦の日
 昭和20年8月15日 暑い忘れられない日となりました。埼玉県の川沿いの畑で、妹達とサツマイモを掘って居ました。3月10日東京深川で戦災にあい、母の生地(埼玉)に来たものの、食糧は有りません。その頃サツマイモは大切な食糧でした。太白と云って中が白く、とても甘く美味しいのですが、毎日食べるとちょっとおなかがいたくなります。「大きいのが出来たあ、これは小さいな」と云い乍ら仕事していました。

そこへ母が、息をはずませて走って来ました。「戦争が終わった、負けた」と言い乍ら、泣きくずれまし
た。私達は、何の事か解らず母を見て立ちすくんで居ました。暫くしてハッと吾にかえり、母と抱き合って泣きました。
 「何のために家を焼かれ、伯母と姉を亡くしたの!学校へも行けず、工場で働かされ、おイモやスイトンを食べて堪えて来たの!他にもお国のためとガマンして来たのに」と、泣いても泣いても泪は止まりません。わたしは15才でした。
 その夜徴用のため足利へ行っていた父が、歩いて帰ってきたのです。夢を見て居る様でした。今夜から電気の下で食事が出来る。おふとんで寝られる。でも食べるものは無い、それでもいい、家族が揃った顔が嬉しいと、小さい子達は、はしゃいで居るがまだ足りないのです。
 


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