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   人が燃えながら走っていた
          
二瓶治代さん 3月10日東京大空襲 その2
                               
  
東京都江東区                       

      
       〈二瓶治代さんのお話を聞く2013 5 24)            (訪問した東京大空襲戦災資料センター 2010 11 12〉
                
 

  
     〈この日投下されたМ69焼夷弾 戦災資料センターで〉

   
          〈私の家はここでしたと治代さんが指さす

   
           〈現在の亀戸駅前 2010 11 13
 

  
          〈当時を語る治代さん〉 

    
              (2013 5 24 再訪しました)

  
     〈人型が残った亀戸駅そばのガード下 2010 11 13〉 

  
   

 

 その時、私は8歳でした。私の家は五人家族で、江東区亀戸1丁目に住んでいました。家は香辛料の仲買をしていました。当時小学3年生以上の子供たちは学童疎開をしていました。
 その日39日は、風が強かったのです。山形の上山から戻った6年生の友達と、遊んだりしました。8時ころには布団に入りました。夜中も寒かったことを、記憶しています。布団の脇には、いざという時のためのリュクサックを置いていました。中には、大好きなカーディガン、紙で作った宝物を入れていました。10時頃一度警戒警報が鳴りました。
 その後何時ごろだったのか、「今日はいつもと違う。起きろっ!」という父の声に私ははね起きました。真っ暗な中に、南の空が異様に赤くそして焼夷弾が降り注いでいたが見えました。焼夷弾がザアー、ザアーと、雨のように降っていました。私たちのところには、焼夷弾は落ちなかったんです。亀戸は攻撃目標になっていなかったので、B29の姿も目にしませんでした。
 家の前の京葉道路の歩道に作った防空壕に、入りました。隣の家族は、すでにこの中に入っていました。父は入らず、兄はどこかに行ってしまいました。緊急時はどこかに集合することになっていたんでしょう。

 防空壕は屋根があってないようなもので、横穴式住居のようなものです。歩道ですから、人の足音、子供の泣き叫ぶ声が耳元に聞こえました。
 防空壕の外で様子を見ていた父が戻ってきて、「ここから出ろ。蒸し焼きになるぞ!」と言いました。隣人のペンキ屋さん(全員死亡)のおばさんは「外に出ない方がいい」と言いましたが、私たちは出ました。自宅が燃えるのを見ると、大切にしていたお雛さまが燃えてしまうと思いました

 渦巻く炎が、道を走っていました。火の粉が真横から飛んできます。火と風に押し流されるように、東に進みました。畳や障子、屋根瓦やトタンなどが、燃えながら飛んできました。その中を、人は皆亀戸駅の方に向かって走っていました。反対の方に行く人は誰もいませんでした。
 髪が燃え服が燃え、人が燃えながら走っていました。子供が火だるまになって、転がっています。負ぶった子どもが背中で燃えているのに、お母さんがそのまま走りつづけていました。
 京葉道路の向こう側の土手に、避難しました。そこから街が燃えるのを、放心状態で見ていました。消防士さんが、消火しているのが見えました。ホースから水がなかなか出てきませんでした。そのうち消防士さんの服が、燃え始めたんです。そして次々に倒れていくのが見えました。
 馬が、暴走してきました(この日多くの馬が焼死を防ぐために放された)。そして一頭の馬が、土手の真下に来てじっとしているのです。4本の足でつっぱっていました。引いていた荷車の荷が燃えはじめ、そしてその火が馬に燃え移っていきました。馬は暴れもせず生きたまま燃え、そのあと倒れていきました。
 土手にも火が回ってきて、母が「ここで死のう!」と言ったんですが、父が「馬鹿野郎、最後まで逃げるんだ!」と、言いました。

 その後両親と私と妹の四人で、火の海の中を駅の方に向かって逃げていきました。私の頭巾にも火がつき、父が「頭巾を取れ!」と叫び、私は防空頭巾を取ろうとして父から手を離したとたん強風にあおられて、私一人が吹き飛ばされてしまいました。炎の中に、吸い込まれるような感じでした。ここで家族は離ればなれになってしまったのです。たぶん私は同じところを、グルグルと廻っていたと思います。
 炎のない場所にでました。立ったまま燃えている人がいました。リュクを背負っていました。着ていたオーバーがなくなり、体全体が燃えているのです。とっさに私は、その人の火を払おうとしたのです。私には背負っていたリュックサックも、着ていたオーバーも頭巾もありません。私は両手で火を払おうとしました。
 するとその人は左手を差し出し、私に「こっちに来るな」と言う仕草をしたのです。その人の手からは炎が出て、それは緑色をしていました。
 その直後、「そんなことをすると死んじゃうよ」という声が聞こえました。私ははっと我に返り、その時初めて熱さを感じたんです。
 右腕を、つかまれました。私は「お父さんなの? お父さんなの? 」と何度も聞きましたが、爆風の音などで聞こえません。そのうち、気を失うように倒れたのです。捕まえた人が私を自分の懐にいれるようにして、そ
の場に伏せていたのです。亀戸駅のそばでした。人が折り重なってきて熱さと重さの中で、意識が朦朧としていましたが、「俺たちは日本人だ。大和魂がある」という声が聞こえてきました。私の腕をつかみそのあと叫んでいたのは、父だったのです。父は私を見つけてくれたのです。
 朝になり火災も自然鎮火し、私も意識を取り戻しました。私の上に折り重なるようにしていた人のほとんどは、死んでいました。私は焼死体の下敷きになっていたのです。亡くなった人たちは、黒こげになっていました。私はこの人たちの下敷きになっていたために助かったのです。

 片方の靴がなくなっていました。落ちている物を拾って履きました。父も火傷だらけでした。燃えるものがなくなっても、人間だけが燃えていました。髪の毛の燃えるような、そして動物が焼けるような臭いがしました。
 その後家族全員が再会しましたが、両親は誰か分からないほどの火ぶくれの顔になっていました。6歳の妹も、足に大やけどをしていました。
 周囲は、歩くのもやっとのほど炭になった死体であふれていました。私は死体をまたぎながら、つま先で歩いたんです。両親は一時的に目が見えなくなり、死体につまずきながら兄を捜しました。

 毛糸の腹巻きをした死体をよく覚えています。自分の家も焼けてなくなっていました。そこでドブネズミのような少年に会ったのです。それは、私たちが捜していた兄でした。
 子供を抱いたまま亡くなっている人も、多かったですね。生きている赤ちゃんが、いました。「ミーミー」と泣いているんです。私が足を止めると父が「こんな時ダメだ(他人の事にかまっている場合ではない)」といって、私の手を引きました。今でもその赤ちゃんを、見殺しにしてしまったと思っています。着ている物が焼けてしまい、火傷のまま一糸まとわず全裸の姿で親を探す子供もいました。
 家を失い身を寄せた「避難所」は工場の焼け跡でした。おにぎりを頂きました。でも食欲がなく水も飲みたいと感じませんでした。もちろんトイレもなくあたりに垂れ流しでした。
 妹の足の火傷が酷く、腐って酷い臭いでした。蛆がわいて母が割り箸でとっていました。
病院に連れて行っても、薬がなく食用油を塗るだけです。しかもそれは、自分で手に入れなければなりません。手に入らず途方に暮れていたところ、見ず知らずの方が油を分けてくれたのです。食用油を塗ると、皮膚が再生していくのです。

 こうして私たち家族は、見知らぬ人の下さった一本の油のおかげで命をつなぐことができました。終戦は、長野県岡谷市で迎えました。親類の家を転々としました。
 亀戸駅そばのガード下のコンクリートには、焼けた人間の脂でできた人型がありました。15年くらいは残っていました。コンクリートで上塗りしても、すぐに脂が浮き上がってきました。そこを通るのがとても怖かったことを覚えています。そのうちコンクリートから、タイル張りに変わっていきました。
 現在自転車置き場になっている総武線と貨物線の交差している場所も、死体が折り重なっていました。人間が炭みたいになり、「こんなになっちゃうんだ」と思いました。

 生き残れた理由を考えると、一つは荷物を持たなかった事だと思います。手にした荷物や背負ったリュクに火がつき亡くなった方が多かったからです。


     
                  〈死体が折り重なっていた場所は現在自転車駐車場になっている 2010 11 12 ) 

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