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言 問 橋 ことといはし
3月10日東京大空襲 その1
東京都
〈複数ある橋の親柱には、猛火に焼かれた人の脂の黒ズミが現在も残る。献水する本別高校生。2010 11 12〉
〈現在の言問橋と、隣接する建設中の東京スカイツリーの威容〉
〈当時は死体であふれた現在の隅田川〉
〈隅田公園の慰霊碑に水を捧げる)
この言問橋は、いわば東京大空襲のシンボル的位置づけにある。
1945(昭和20)年3月10日の東京大空襲の際に、火に追われた人々が「川の向こうに行けば、助かる」と思い、この橋を渡ろうとして両岸から人々が殺到した。橋の上で身動きできない状態となり、やがて橋の上にも炎が滝のように吹き付け、猛火になぶられた人々がその場で焼死した。目撃した人の話では、人間の叫び声ではない獣のような声が響いたという。また熱さに耐えかねた人々は次々と欄干から身を躍らせ、死体で埋まった隅田川に飛び込んだ。しかし、水温が低いこと厚着していたこと等で溺死する人々が続発した。
その上、水に面していない頭部などは炎に焼かれたという。夜が明けると、隅田川は一面死体が浮き、言問橋の上にも累々たる死体の山が築かれていた。その数数千と言われている。
1992(平成4)年の改修工事で切り出された欄干の縁石(色が黒く変色している)が、隣接する隅田公園に展示されている。しかし、複数のこる橋の親柱には、現在も焼死体から流れ出た人の脂の黒ズミが残っている。
今回私自身も初めて訪問したが、「人の脂の黒ズミ」の明瞭さに驚かされた。空襲体験者が口を揃えるのは、「人間というのは、それ自身よく燃えるんですよ。コンクリートの表面に人間の脂が人型になって残っているのが、いたるところありましたよ」と、いうものである。私たちは、浅草寺から約600メートルの距離を歩き、本別福田牧場の「命の水」を橋の「親柱」に捧げた。
また浅草側の橋のたもとにある「隅田公園慰霊碑」でも、慰霊を重ねた。ここ浅草側の隅田公園は、1155の遺体が仮埋葬された地(対岸の本所側には実に6374体)である。「ああ東京大空襲 朋よやすらかに」の碑文に心が動かされる。
先に訪問した名所「浅草寺」の境内にも、戦争遺跡がある。焼け残った「銀杏の木」である。このように焼け残った木は都内に点在しているが、ここのものが最も有名である。現在も幹には「黒ズミ」が残っている。銀杏の木の生命力の強さに改めて驚かされる。
〈言問橋東側の親柱 2013 5 24」〉 〈浅草寺の境内にある「銀杏」 2010 11 12 )
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